【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「ブラック・スワン」

2011-05-16 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

この映画に日本語題名をつけるとしたら?
「スワンの涙」。
オックスかい。
悲しいすがた、スワンの涙
キャー、失神しちゃう・・・って、いまどき誰も知らないちゅうの。
時の流れは残酷だねえ。ウィノラ・ライダーも知らないのかな。
ティム・バートンの「シザーハンズ」のヒロインでしょ。あんなに初々しくジョニー・デップの相手役をしていた女優が「ブラック・スワン」では落ち目のロートル・バレリーナの役を演じるなんて無常ねえ。涙が出てくるわ。
スワンの涙だな。
彼女からヒロインの座を奪う新進バレリーナ役が、「スター・ウォーズ」のナタリー・ポートマン。
まるでハリウッドの栄枯盛衰を地でいくような配役じゃないか。
でも、このバレリーナ、「白鳥の湖」の主役に抜擢されたのはいいんだけど、白鳥と黒鳥の二役を演じ分けなきゃいけないのに、清純な白鳥役はできても邪悪な黒鳥役がなかなかできない。
清純な役ができるっていうのも、彼女の心が清純だからじゃなくて、親に抑圧されていたせいだっていうのがミソでね。
精神的に追い詰められて、とうとう発狂寸前。虚実相まって、おかしな幻覚まで見るようにまでなってしまう。
ところが皮肉なことに、その幻覚が黒鳥の役を体得させるっていうんだから、芸術の世界ってわからない。
でも、おかしくない?ラスト、ああいう形で役を体得するっていうんだったら、殺人者の役がきたらほんとに人を殺さなくちゃならないし、子どもを産む役がきたらほんとに子どもを産まなきゃならない。演じるってそういうことじゃないでしょう。
そこがもうひとつひねってあるところでね、あのラスト・シーン、実はあれも彼女の幻覚なんだよ。想像力の賜物と言い換えてもいい。
えっ、そんなこと誰が言ってるの?
俺。
なーんだ、いいかげんなこと、言わないでよ。
いいかげんじゃないさ。そうとでも考えなきゃ、あの神経質なバレエ団の監督が最後にわざとらしく衣装の汚れに気づくなんてヘンだろ。
じゃあ、あのバレリーナが放った最後の一言。あれは彼女の幻覚の中の声に過ぎなかったっていうこと?
ああ、ナタリー・ポートマン自身の心の声だ。
どういう意味?
「とうとう会心の演技ができたわ。これでアカデミー賞は私のものだわ」なんてな。
役柄と役者は別でしょう。
そんなことはない。「レスラー」で落ち目役者のミッキー・ロークと落ちぶれたレスラー役を重ね合わせた曲者ダーレン・アロノフスキー監督だ、役者としてのナタリー・ポートマンと演技に悩むバレリーナ役を重ね合わせても不思議はない。
じゃあ、落ち目役者のウィノラ・ライダーと落ちぶれたバレリーナの役も重ね合わせたっていうわけ?残酷ねえ。
悲しいすがた、スワンの涙