Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2019年02月11日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィ指揮N響のAプロは、リヒャルト・シュトラウスのヴァイオリン協奏曲(作曲者17歳のときの若書き)とハンス・ロットの交響曲第1番(ウィーン音楽院の卒業制作で第1楽章を書き、その2年後に全曲を完成)というプログラム。聴く前は、習作プログラムかと思っていたが、実際に聴くと、聴きごたえ十分だった。

 シュトラウスのヴァイオリン協奏曲は、第1楽章の出だしが溌溂としていて、若き日のシュトラウスの意気込みが感じられる。それを微笑ましく思っているうちに、展開部でヴァイオリンのカデンツァが始まる。そんな(展開部を途中で切るような)例が他にあったろうかと考えたが、その場では思い出せなかった。

 第2楽章は3部形式で書かれているが、その両端部分は憂愁の音楽だ。後年のシュトラウスなら絶対に書かないような音楽。思わぬ発見をした気分になった。第3楽章ではメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の第3楽章を連想した。

 ヴァイオリン独奏はアリョーナ・バーエワという若い人。カザフスタン生まれで、モスクワ音楽院で学び、(詳細は省くが)いくつかの国際コンクールで優勝した経歴を持つ。じつに闊達な演奏をする人だ。最初は楽器が鳴っていない印象を受けたが、最後はよく鳴っていた。アンコールはなかった。

 ハンス・ロットの交響曲第1番は、沼尻竜典指揮日本フィルの演奏で2004年に聴いて以来だ(それは日本初演だったらしい)。今回はN響と神奈川フィルが同日に演奏し、また読響も本年9月に演奏するなど、一躍ブームになっている。

 わたしなどがいうまでもないが、マーラーの交響曲第1番、第2番、第3番、第5番の一部分を彷彿とさせる素材が出てくる曲だが、それをロットの先駆性、あるいは他に類のない非凡性と捉えるか、それともそれらの素材の可能性に着目したマーラーの慧眼を思うべきか、その判断は難しい。

 だが、こうはいえるだろう、25歳で狂気のうちに亡くなったロットがもし生きていたら、マーラーはあれほどあからさまにロットの素材を使えなかったろう、と。

 パーヴォ指揮N響の演奏は名演だった(今後語り継がれるかもしれない)。厚みのある音で輪郭のはっきりした音楽を造形した。第3楽章と第4楽章の終結部での追い込みには手に汗握った。ゲスト・コンサートマスターの白井圭のソロは、たんに正確なだけではなく、濃い情感を湛えていた。
(2019.2.10.NHKホール)

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