Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

丸谷才一「女ざかり」

2019年08月19日 | 読書
 丸谷才一の「女ざかり」を読んだ。友人と続けている読書会の7月のテーマだったので。丸谷才一の小説を読むのは初めて。本作は1993年に刊行され、ベストセラーになったが、当時のわたしは仕事中心で、文学からは遠ざかっていた。

 本作は長編小説だが、明るい文体と小気味よいストーリー展開で一気に読めた。主人公は南弓子という新聞記者(本作が映画化されたとき、南弓子役は吉永小百合が務めた)。論説委員に抜擢された南弓子は社説を書く。その社説がある筋の怒りを買い、政府を通じて新聞社に圧力がかかる。南弓子は配置転換されそうになるが、それに納得できない南弓子は、見えない敵と闘う。

 ストーリーは以上のようなものだが、これだけでも、本作のエンターテインメント性がわかってもらえるのではないかと思う。シリアスな小説とは真逆の作品。それを当代きっての教養人の丸谷才一が書くのだから、本作はたんなる娯楽小説ではなく、たとえていえば、極上のウィスキーのような芳醇さを備えたものになった。

 その味わいをどう表現したらよいのだろうと、思案していると、フッと「雑味がない」という表現を思いついた。明るく、屈託がなく、快適なテンポで進み、そのテンポに乱れがないという意味で雑味がない。音楽のような心地よさがある。明瞭な方向感があるので、読んでいて迷子にならない。

 ところが、一か所だけ、雑味を残す箇所があった。それは第8章の最後の箇所。南弓子が首相公邸の坪庭で「不思議な感覚」に襲われる。それは「何か途方もなく広大なもの、よくはわからないがたぶん宇宙が」その坪庭に「圧縮」され、その「凝縮のエネルギー」に圧倒されるような感覚。その感覚はいったい何だろう。南弓子の恋人(=不倫相手)は次の第9章で「一種の宗教的体験。神秘的体験」と解釈してみせるが、作者がそう信じている節はない。

 つまり、どう解釈するかは、読者に委ねられている。音楽にたとえれば、曲の最後に打ち込まれる不協和音のようなもの。それは作者が仕掛けた謎だろう。

 もう一か所、雑味というほどではないが、全体のトーンから外れる箇所がある。思わず笑いが漏れる箇所なのだが、それは第1章の南弓子とその同僚の社会部出身の記者とのエピソード。事件に関するカンは鋭いが、文章が苦手な同記者が、苦心惨憺して社説を書き、それを南弓子に直してもらうのだが、細かい事柄にこだわって、もたもたした同記者の文章のほうが、それを直してスマートにした南弓子の文章よりも面白い。そんな二人の文章を書き分ける作者に脱帽した。

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