シュトゥットガルトの2日目はヘンデルの「時と悟りの勝利」。これはもともとオラトリオだが、ビエイトの演出でオペラとして上演された。
本作はヘンデルのイタリア滞在中の作品。当時のローマではオペラ禁止令が出ていたので、多くの作曲家はオラトリオに仮装して、劇的表現をおこなった。本作もその一つ。
これはもう何年も前のことだが、チェチーリア・バルトリがアーノンクールと組んで本作を上演した。その記事を読んで以来、いつかは生で、できればオペラとして、聴いてみたいと思っていた。
本作は全2幕。第1幕では「快楽」(快楽の擬人化)が「美」(美の擬人化)に快楽の世界を見せる。ビエイトの演出では、無数のカラフルな紙テープが舞い降りてきて、子供たちがそれを集めて遊ぶ。楽しい演出だった。
一方、第2幕では「悟り」(悟りの擬人化)と「時」(時の擬人化)が「美」に真実の世界を見せる。やがて死すべき定めを想い、現世の虚飾を捨てよ、という教えだ。ビエイトの演出では、何人もの老人たちが出てきて、下着姿で(紙おむつを付けている人もいる)ウロウロと、亡霊のように歩き回る。
「美」は真実に目覚めて、虚飾を捨て、本作は静かに終わる――はずだが、ビエイトの演出では、突然、冒頭の明るく、活気のあるシンフォニアに戻り、老人たちが回転ブランコに乗って、歓声をあげた。老人になっても楽しいことはあるし、ばか騒ぎもする、というわけだ。なんとも元気の出るメッセージだ。隣に座っていた初老のご婦人は、わたしに「Good idea!」といって微笑んだ。
これがビエイト演出の要諦だ。死を想い、虚飾を捨てよ、というのは当時の教皇庁の教えだが、今では(ひょっとすると当時も)そこには収まりきらない生のエネルギーが、庶民にはある(あったはず)。これをおざなりにせずに、救い出したわけだ。
思えばビエイトは過激な演出で頭角を現したが、その本質には意外なほどヒューマニズムがあるようだ。
指揮はSebastien Rouland。以前ミンコフスキーの助手をしていたそうだ。なるほど、音楽づくりから、指揮の身振りまで、ミンコフスキーに似ていた。歌手のなかでは「時」のCharles Workmanに注目した。レパートリーにはグルック、モーツァルト、ロッシーニからプフィッツナーの「パレストリーナ」まで入っている。
(2011.7.8.シュトゥットガルト歌劇場)
本作はヘンデルのイタリア滞在中の作品。当時のローマではオペラ禁止令が出ていたので、多くの作曲家はオラトリオに仮装して、劇的表現をおこなった。本作もその一つ。
これはもう何年も前のことだが、チェチーリア・バルトリがアーノンクールと組んで本作を上演した。その記事を読んで以来、いつかは生で、できればオペラとして、聴いてみたいと思っていた。
本作は全2幕。第1幕では「快楽」(快楽の擬人化)が「美」(美の擬人化)に快楽の世界を見せる。ビエイトの演出では、無数のカラフルな紙テープが舞い降りてきて、子供たちがそれを集めて遊ぶ。楽しい演出だった。
一方、第2幕では「悟り」(悟りの擬人化)と「時」(時の擬人化)が「美」に真実の世界を見せる。やがて死すべき定めを想い、現世の虚飾を捨てよ、という教えだ。ビエイトの演出では、何人もの老人たちが出てきて、下着姿で(紙おむつを付けている人もいる)ウロウロと、亡霊のように歩き回る。
「美」は真実に目覚めて、虚飾を捨て、本作は静かに終わる――はずだが、ビエイトの演出では、突然、冒頭の明るく、活気のあるシンフォニアに戻り、老人たちが回転ブランコに乗って、歓声をあげた。老人になっても楽しいことはあるし、ばか騒ぎもする、というわけだ。なんとも元気の出るメッセージだ。隣に座っていた初老のご婦人は、わたしに「Good idea!」といって微笑んだ。
これがビエイト演出の要諦だ。死を想い、虚飾を捨てよ、というのは当時の教皇庁の教えだが、今では(ひょっとすると当時も)そこには収まりきらない生のエネルギーが、庶民にはある(あったはず)。これをおざなりにせずに、救い出したわけだ。
思えばビエイトは過激な演出で頭角を現したが、その本質には意外なほどヒューマニズムがあるようだ。
指揮はSebastien Rouland。以前ミンコフスキーの助手をしていたそうだ。なるほど、音楽づくりから、指揮の身振りまで、ミンコフスキーに似ていた。歌手のなかでは「時」のCharles Workmanに注目した。レパートリーにはグルック、モーツァルト、ロッシーニからプフィッツナーの「パレストリーナ」まで入っている。
(2011.7.8.シュトゥットガルト歌劇場)