Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

「紫苑物語」余談

2018年09月12日 | 読書
 石川淳の「紫苑物語」で気になっている点が二つある。一つは既存のオペラを連想させる部分があるという点。もう一つは、本作のルーツというか、どこから本作が生まれたのかという点。

 まず1点目だが、岩山のむこうの桃源郷は、ワーグナーの「パルジファル」のモンサルヴァートを連想させ、またそこからの脱落者「藤内」(とうない)はクリングゾルを連想させるということは、以前書いたので、もう繰り返さない。

 では、「宗頼」はパルジファルかというと、そうともいえる。だが、「宗頼」は仏(=善)に挑戦する男なので、パルジファルのキャラクターを180度転換している。一方、「千草」はクンドリか。国や館で起きることを隅々まで知っている点で、クンドリと似ている。また「平太」に恨みを持っている点もそうだ。

 だが、わたしが一番気になるのは、「藤内」という名前だ。「藤内」とは、加賀、能登、越中では被差別民の集団を指す言葉だ(網野善彦「宮本常一『忘れられた日本人』を読む」岩波現代文庫147頁)。石川淳がそれを知らずに命名したはずはない。では、そう命名したのはなぜか。しかも「藤内」の描き方は徹底して意地が悪いが。

 わたしはその描き方にワーグナーの「ジークフリート」でのミーメや、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」でのベックメッサーの描き方に通じるものを感じる。石川淳に被差別民への蔑視があったとは思えないので(「修羅」を読めばわかる)、「藤内」はワーグナーのユダヤ人蔑視のパロディーではないかと思う。

 その他にも、最後に「千草」が炎となって館を焼き尽くす場面は、「神々の黄昏」でのヴァルハラ城の炎上のようだし(鬼の歌はラインの乙女たちの歌に対応する)、また、ワーグナーではないが、「宗頼」が谷川のほとりで「千草」を見つける場面は、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」でゴローがメリザンドを見つける場面とそっくりだ。

 以上のことは偶然なのか。石川淳のことだから、偶然などあり得ないと思うが。

 さて、2点目の本作のルーツだが、直接的な先行作品としては、坂口安吾の「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」を考えてよいと思うが、もう一歩進んで、安吾のそれらの作品が生まれたのはなぜだろうと考えると、当時の日本には説話文学の再興のような気運があったのではないだろうか、と思う。敗戦直後の社会状況が影響しているのかどうか、興味深い点だ。

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