Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

サロメ

2012年06月02日 | 演劇
 オスカー・ワイルドの「サロメ」。平野啓一郎の翻訳、宮本亜門の演出による新制作が初日を開けた。初日ゆえの硬さがあったが、舞台の狙いはよくわかった。

 「サロメ」というと、どうしてもリヒャルト・シュトラウスのオペラが頭に浮かぶ。あのオペラはオスカー・ワイルドの戯曲(ドイツ語訳)に直接――オペラ用の台本を作らないで――音楽を付けているので(台詞の細かいカットは無数にあるが。)、登場人物のキャラクターやストーリーの展開は原作のとおりだ。

 だから逆に、演劇を観ていると、この部分ではあの音楽が鳴っていた、という記憶が次々に浮かんで、少なくとも途中までは、舞台に集中できなかった。

 やっと集中できたのは、ヨカナーンの首が切られて、床一面に血が流れた場面からだ。その首を持ったサロメの長台詞に惹きつけられた。

 オペラと比較してもっとも目立った点は、サロメのキャラクターの設定だ。翻訳・演出の両面で、少女と設定されていた。オペラでもどこかでそのような演出を観た気がする。だが、今回のような明確さはなかった。すでにシュトラウスの音楽の枠組みがあるからだろう。

 少女という設定が明確になったのは、多部未華子(たべ・みかこ)の演技のためでもあった。思春期には入っているが、まだ大人の官能性を発揮していない、感性豊かな少女。オペラや絵画(たとえばギュスターヴ・モローの作品)でお馴染みの官能的なサロメとは一線を画すサロメだ。

 少女サロメが惹かれるヨカナーンが、これまたサロメより少し年上の少年(もしくは青年)に見えることも、リアリティがあった。ヨカナーンを演じる成河(ソンハ)の演技も、多部未華子のサロメと響き合っていた。

 一方、サロメに興味をもつ義父ヘロデは、もっといやらしくてもよかった。奥田瑛二は、不安と焦燥感でアルコール漬けになったヘロデを熱演したが、どこか冷めていた。サロメが官能的でない分、ヘロデはもっといやらしいほうがいい。ヘロデがもっといやらしければ、妻ヘロディアス(麻実れい)ももっと生きたはずだ。

 5人のユダヤ人、2人のナザレ人、ローマからの使者など、イエスがガリラヤで布教を始めたこの時代の、複雑に入り乱れた人々が、台詞のない場面でも登場して、よく描き分けられていた。オペラではここまでは難しい。演劇の強みを感じた。
(2012.5.31.新国立劇場中劇場)

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