Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

沼尻竜典/N響

2021年09月27日 | 音楽
 沼尻竜典指揮のN響の定期。1曲目はモーツァルトのクラリネット協奏曲。クラリネット独奏は来日中止になったアンドレアス・オッテンザマーの代役に立ったN響首席の伊藤圭。代役ではあるが、バセット・クラリネットを使用するというおまけがついた。

 昔(調べてみたら、1985年4月だ)、日本フィルの定期にザビーネ・マイヤーが出演してこの曲を吹いたとき、バセット・クラリネットを使用した記憶がある(指揮はイヴァン・フィッシャーだった)。そのときの演奏風景は覚えているのだが、肝心の音色はどうだったろう。ドスのきいた中低音が耳の底に残っている(ような気がする)。

 伊藤圭の演奏では、中低音云々というよりも、全体にくすんだ音色が印象的だった。オーケストラは弦楽器が8‐8‐6‐4‐2と小ぶりだったこともあり、クラリネットとオーケストラが一体となり、穏やかで丸みのある、調和した世界を形作った。

 ただ、あまりにも抵抗がなく、なにも起こらない世界に、わたしは物足りなさを覚えた。予定されていたオッテンザマーが来たらどうなっていたか、というよりも、オッテンザマーでなくてもよいのだが、およそ演奏には、なにかが生起し、波風が立つ、揺らぎの瞬間が必要ではないか。すべてが予定調和的に進行する演奏は、なにかを取りこぼしているような気がする。

 2曲目はマーラーの交響曲第1番「巨人」。沼尻竜典はこの曲が得意なのだろうか。2018年12月に日本フィルの定期でもこの曲を振り、名演を聴かせた。今回もそれを思い出させる演奏だった。流れがよく、淀みのない演奏だ。それは沼尻竜典のデビューのころからの特徴だが、近年はそれに加えて、自然な呼吸感が備わった。そのため、聴いていて疲れない。第1楽章のコーダや第2楽章の(三部形式の両端部分の)コーダなどは、テンポを巻き上げ、目の覚めるようなスリルがあったが、その部分でさえ爽快感がある。

 だが、それ以外の、あるいはそれ以上の、なにがあったろうか。流れのよさと呼吸感があればそれでよいではないかと、わたし自身の声が聞こえるが、でも足りないものがあるとすれば、それは滓(おり)のようなものかもしれない。滓のようなものとは抽象的な言い方だが、具体的に言えば、呼吸感の先にある声楽的な掘り下げといったらよいか。沼尻竜典のような才能の持ち主にはもっと先に行ってもらいたいと思うからだ。

 個別の楽員では、モーツァルトのクラリネット協奏曲を吹いた伊藤圭がマーラーの「巨人」でも一番奏者に入った。驚いて、その音を追った。見事なものだ。ヴィオラの首席には元首席奏者の川本嘉子が入った。懐かしい。また「巨人」のティンパニの二番奏者には日本フィルの元ティンパニ奏者の三橋敦が入った。久しぶりなので、わが目を疑った。
(2021.9.26.東京芸術劇場)

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