Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ケストナー没後50年(1):「独裁者の学校」

2024年09月28日 | 読書
 今年はドイツの作家エーリヒ・ケストナー(1899‐1974)の没後50年だ。ケストナーは「エーミールと探偵たち」、「飛ぶ教室」、「二人のロッテ」などの児童文学が有名だ。わたしも大ファンだ。だがケストナーの執筆活動は児童文学にかぎらない。今年2月にはケストナーの戯曲「独裁者の学校」の日本語訳が刊行された(酒寄進一訳、岩波文庫↑)。戯曲は珍しい。興味津々読んでみた。

 題名の「独裁者の学校」とは独裁者の替え玉を養成する学校だ。独裁者はすでに死んでいる。独裁勢力は独裁者の死を隠して、独裁者にそっくりな替え玉を仕立てる。独裁体制は続く。その替え玉も暗殺されることがある。だが困らない。替え玉は10人以上も養成されているからだ。

 独裁勢力の一人はいう。「(引用者注:たとえ独裁者が暗殺されても)大統領(=独裁者)はその都度、若返り、厳しくふるまい、より熱く、冷酷になる。それがわれわれの決めたことだ。世間は大統領の望みを先回りしてやるようでなくては。邪魔をする愚か者には災いあれ、だ!」(34頁)と。

 独裁者は暗殺されても、「その都度、若返り(中略)冷酷になる」とはゾッとするが、独裁体制の本質をついているのだろう。独裁体制とはシステムだ――それがナチス・ドイツを生きたケストナーの見た独裁体制の本質だろう。加えて、後段の「世間は大統領の望みを先回りしてやるようでなくては」というくだりは、少なくとも「世間」を「メディア」に置き換えれば、すでにいまの日本でも起きていることではないだろうか。

 「独裁者の学校」は1956年に刊行された。ケストナーの「まえがき」によれば、構想は20年前に生まれたという。20年前といえばナチスの全盛期だ。ケストナーはナチスの弾圧を受けながら(1933年にナチスが起こした焚書事件では作品を焼かれた)「独裁者の学校」の構想を練った。その豪胆さに驚く。

 だが「独裁者の学校」はシリアスな作品ではなく、コメディだ。凍りつくような場面もなくはないが、全体を通してコミカルだ。でもコミカルなやりとりの中に、上記のような独裁体制の本質をつくセリフがちりばめられている。

 もう一例をあげると、ある娼婦はいう。「裁判官は無実の人を有罪にするし、研究者は世界の没落にご執心。医者は依頼殺人に手を染める始末。なにが正しいかを、悪党が決めるようになってしまって、義を尊ぶ人は良心の呵責にさいなまれている。」(104頁)と。「なにが正しいかを、悪党が決める」とは独裁体制の本質だろう。コメディなので笑って読み飛ばすが(舞台なら、笑って聞き流すだろうが)、後で考えるとゾッとする。
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