Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

怒りをこめてふり返れ

2017年07月29日 | 演劇
 ジョン・オズボーン(1929‐1994)の演劇「怒りをこめてふり返れ」(1956)は、わたしが大学生の頃は(1971~1975)すでに伝説的な作品だった。時代はその先を模索していた。わたしは「怒りをこめて…」を読みもせず、時代の荒波に流されていた。

 就職してからは、文学から遠ざかり、演劇を観る余裕もなく、音楽だけを続けていた。そんなわたしが、定年の3年前に早期退職し、第2・第3の職場で働く今、青春の記憶が宿るこの作品に出会うことに、一種の感慨があった。

 わたしは緊張した。どういうわけか、60歳代の半ばになって、この作品に出会うことに緊張した。いきなり舞台を観るのは恐かった。戯曲はすでに絶版になっているので、古本を買って読んでみた。

 わたしは圧倒された。主人公の若者ジミーが、妻のアリソンにむかって絶え間なく悪態をつくことに辟易した。今の感覚なら、アリソンはとっくのとうに家を出て行くだろうに、そうしないのはなぜだろうと思った。物語の展開はあるのだが、ジミーが(主にアリソンにむかって、やがて他の人にも)悪態をつくことに変わりはない。

 ジミーの怒りが、実の所、イギリスの根強い階級社会(今もそうだといわれている)にむけられていること、また戦後10年あまりたって、‘正義’を喪失した時代にむけられていることはよく分かったが、それが今の日本とどう関わるかは、見当がつかなかった。

 そんな状態で舞台を観た。第一印象は、意外に喧騒と静寂との対比があるということだった。ジミーがつく悪態の、嵐のような騒々しさと、それが一息つくときの静けさとが、鮮明な対比を成していた。それは音楽的でさえあった。

 感じたことの第二は、この作品は現代の日本社会に通じるかもしれないということ。ブラック企業に働く若者たちの多くは、わたしを含むリタイア世代に、「あの連中はいい思いをしている」と反感を持っているかもしれない。この作品は、図らずも、現代社会に潜在する‘怒り’に触れる可能性がある。

 だが、それにしては、最後が甘いと思った。ジミーとアリソンとの愛の蘇生の物語はよいのだが、あまりにも甘く、メロドラマ風に収斂しはしなかったろうか。2人の(心理的な)距離のとり方に、もう一工夫の余地はなかったかと思う。

 ジミー役の中村倫也とアリソン役の中村ゆりの演技には、繊細な感性が感じられた。
(2017.7.26.新国立劇場小劇場)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする