Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

飯守泰次郎&東京シティ・フィル

2011年10月14日 | 音楽
 これは偶然だろうが、今月は在京オーケストラのうち3団体がブラームスの「ドイツ・レクイエム」を取り上げる。ときどきこういうことが起きる。最近ではブルックナーの交響曲第8番が、海外のオーケストラの来日公演を含めて、短期間のうちに集中したことがあった。そのときは国内のオーケストラを一つだけ聴いたが、今回は3団体とも聴く予定。

 昨日はその第1弾で、飯守泰次郎指揮東京シティ・フィルの定期だった。飯守さんは来年3月をもって常任指揮者を退く予定(その後は桂冠名誉指揮者)。常任指揮者としての最後のシーズンとなる今は、オーラのような輝きが感じられる。昔、晩年の山田一雄に感じたオーラと似たオーラだ。二人のタイプはまったくちがうが、余分なものを削ぎ落として、自らの資質のみを研ぎ澄ました点が共通している。

 昨日は1曲目にブラームスの「悲劇的序曲」が演奏された。飯守さんの意欲がほとばしるアグレッシヴな演奏だった。

 休憩後が「ドイツ・レクイエム」。第1曲の「悲しんでいる人たちは、さいわいである」が始まると、前曲とはうって変わってしっとりした音になった。合唱の東京シティ・フィル・コーアも美しい。第2曲の「人はみな草のごとく」に移ると、緊張をはらんだ抑制された音で始まり、あっという間にクレッシェンドするその音は、今まで聴いたどの演奏よりも強烈だった。魂をぶつけるような演奏だ。第3曲の「主よ、わが終わりと、わが日の数のどれほどであるかを私に知らせ」では、バリトンの福島明也さんが、飯守さんの魂が乗り移ったような、あるいは飯守さんの音楽観と軌を一にするような、ドラマティックな独唱を聴かせてくれた。

 こうして最後の第7曲「今から後、主にあって死ぬ人はさいわいである」まで、息をつめて聴き入った。全曲を通してこれほど集中し続けたことは初めてだ。

 いつものことながら、舩木篤也さんのプログラム・ノートにも感心した。全体の構造がつかみにくいこの曲を、第4曲を中間点としたシンメトリックな構造として捉えていた。第4曲をはさんで、第3曲(バスまたはバリトン独唱)→第5曲(ソプラノ独唱。昨日は安井陽子さん)、第2曲→第6曲(ともに激烈な曲想)、第1曲(悲しんでいる人のさいわい)→第7曲(死者のさいわい)というアーチ型の対応関係。なるほど、よくわかると、胸にストンと落ちた。
(2011.10.13.東京オペラ・シティ)
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