新国立劇場の「コジ・ファン・トゥッテ」。演出にダミアーノ・ミキエレットの名があったので、これは2度観たいと思い、6月2日と8日のチケットを買った。
ミキエレットの演出は、幸いにも、2007年にペーザロで「泥棒かささぎ」を観ることができた。そのときはもう心底から仰天した。一言でいうと、各場面、各場面が、意表を突く演出の連続だった。これはハンブルグで観たペーター・コンヴィチュニー演出の「ばらの騎士」とともに、今までのわたしのオペラ経験の双璧だ。
今回の「コジ・ファン・トゥッテ」も期待に違わない演出だった。場所はドン・アルフォンソの経営するキャンプ場。フィオルディリージとドラベッラ、フェルランドとグリエルモはそこに集う若者たち。デスピーナはキャンプ場の従業員。
あっと息をのんだのは、第2幕が「夜」に設定されていたことだ。なにが起きても不思議ではないキャンプ場の夜。そうでなくても濃密なモーツァルトの音楽が、さらに濃密さを増した。
まずドラベッラがグリエルモの求愛に陥落する場面。官能がひそかに匂い立つ二重唱では、地面に腰を下ろした2人の前で焚き火が燃え上がる。次には心の動揺に苦しむフィオルディリージの長大なアリアの場面。フィオルディリージは、ほてった気持ちを冷まそうと、池に入っていく。滴り落ちる水の音が伴奏に加わる。
感心したのは、第1幕の後半で(ほんとうの恋人)ドラベッラへの愛を歌い上げるフェルランドが、気持ちの変化に悩んでうずくまるドラベッラの背後から、そっと上着をかけてやる演出。同じように、前述のフィオルディリージのアリアの場面では、(ほんとうの恋人)グリエルモが、背後からそっと毛布をかけてやる。男たちの心情を視覚化した演出だ。
今までいろいろな「コジ・ファン・トゥッテ」を観てきたが、ストーリーを信じることができたのは、これが初めてだ。
フィナーレでは全員の絆が切れてしまって、各人孤独で不幸になる。暴かなくてもよい「真実」を暴いて人々を不幸に陥らせたドン・アルフォンソは、イプセンの演劇「野鴨」の登場人物グレーゲルスのようだ。
演奏は8日のほうが格段によかった。2日にはオーケストラの細かいリズムが合っていないことがあり、歌手との呼吸も今一つだった。ところが8日はこれらが解消され、アンサンブルが整っていた。歌手の演技にも余裕があった。
(2011.6.2&8.新国立劇場)
ミキエレットの演出は、幸いにも、2007年にペーザロで「泥棒かささぎ」を観ることができた。そのときはもう心底から仰天した。一言でいうと、各場面、各場面が、意表を突く演出の連続だった。これはハンブルグで観たペーター・コンヴィチュニー演出の「ばらの騎士」とともに、今までのわたしのオペラ経験の双璧だ。
今回の「コジ・ファン・トゥッテ」も期待に違わない演出だった。場所はドン・アルフォンソの経営するキャンプ場。フィオルディリージとドラベッラ、フェルランドとグリエルモはそこに集う若者たち。デスピーナはキャンプ場の従業員。
あっと息をのんだのは、第2幕が「夜」に設定されていたことだ。なにが起きても不思議ではないキャンプ場の夜。そうでなくても濃密なモーツァルトの音楽が、さらに濃密さを増した。
まずドラベッラがグリエルモの求愛に陥落する場面。官能がひそかに匂い立つ二重唱では、地面に腰を下ろした2人の前で焚き火が燃え上がる。次には心の動揺に苦しむフィオルディリージの長大なアリアの場面。フィオルディリージは、ほてった気持ちを冷まそうと、池に入っていく。滴り落ちる水の音が伴奏に加わる。
感心したのは、第1幕の後半で(ほんとうの恋人)ドラベッラへの愛を歌い上げるフェルランドが、気持ちの変化に悩んでうずくまるドラベッラの背後から、そっと上着をかけてやる演出。同じように、前述のフィオルディリージのアリアの場面では、(ほんとうの恋人)グリエルモが、背後からそっと毛布をかけてやる。男たちの心情を視覚化した演出だ。
今までいろいろな「コジ・ファン・トゥッテ」を観てきたが、ストーリーを信じることができたのは、これが初めてだ。
フィナーレでは全員の絆が切れてしまって、各人孤独で不幸になる。暴かなくてもよい「真実」を暴いて人々を不幸に陥らせたドン・アルフォンソは、イプセンの演劇「野鴨」の登場人物グレーゲルスのようだ。
演奏は8日のほうが格段によかった。2日にはオーケストラの細かいリズムが合っていないことがあり、歌手との呼吸も今一つだった。ところが8日はこれらが解消され、アンサンブルが整っていた。歌手の演技にも余裕があった。
(2011.6.2&8.新国立劇場)