先月から井上ひさしの東京裁判三部作の連続上演が始まっていて、第1部の「夢の裂け目」の初日が開いた翌日、本人が亡くなった――その報道に接したときには胸が痛んだ。私はたまたま初日をみて感動し、まだ余韻に浸っていた。報道によれば、初日の翌朝に病院から自宅に戻り、そのときは元気だったが、夕方になって急変したとのこと。家族に看取られて亡くなったことが、せめてもの救いだ。
そして昨日、第2部の「夢の泪(なみだ)」が始まった。思いがけず追悼公演になった今回の連続上演。役者さんたちのテンションも否応なく高まるが、観客の私としても、故人の遺志にふれる思いがした。
もちろん、湿っぽいところは微塵もない。あくまで明るく、素直で、前向きな芝居。東京裁判という大きなテーマに挑み、その意味を問う芝居なので、見方によっては生硬と感じられる部分もあるが、それを優しい感性でくるんでいる。むしろ、文献のなかでは生硬になりがちな議論を、生きた言葉として芝居のなかに残した、といったほうがよい。
ストーリーは、東京裁判の意味を問うことを主軸にして、在日朝鮮人の問題や米国在住日系人の問題が絡んでくる。そこにフィクションとして、ある唄の誕生の秘密をめぐるサブストーリーが展開する。さらに若い二人の恋や中年夫婦の危機も描かれる。このような盛り沢山の素材が、すっきりと喜劇の枠内に収められている。
これは音楽劇だが、音楽劇にした意図はよくわかる。東京裁判の意味をめぐる台詞が続くと、理屈っぽくなりがちだが、台詞を最小限にとどめて、あとは音楽に移行することによって、芝居の進行を登場人物の心情に転換できるからだ。この手法によって、議論は生き生きとした感情の網の目のなかに収まっていく。
もちろん役者さんによっては、歌が得意な人もいれば、そうではない人もいるが、そのことはあまり苦にならなかった。得意でない人も一生懸命に歌おうとしているその姿に意味があると感じた。
初日だったせいか、意欲が先行して多少前のめりの感じがしたが、それはすぐに微調整されるだろう。また、電話番号に絡むギャグの箇所で、二つ目のギャグがよくわからなかったが、あれは落ちを飛ばしてしまったのではないだろうか。そのような瑕疵はほかにもあったかもしれないが、たとえあったにしても許容範囲だ。
栗山民也さんの演出は、たとえば一つの台詞が発せられた瞬間に、舞台の空気がガラッと変わる、そういう内的なインパクトを丁寧に描いていて、見事だった。
(2010.5.6.新国立劇場小劇場)
そして昨日、第2部の「夢の泪(なみだ)」が始まった。思いがけず追悼公演になった今回の連続上演。役者さんたちのテンションも否応なく高まるが、観客の私としても、故人の遺志にふれる思いがした。
もちろん、湿っぽいところは微塵もない。あくまで明るく、素直で、前向きな芝居。東京裁判という大きなテーマに挑み、その意味を問う芝居なので、見方によっては生硬と感じられる部分もあるが、それを優しい感性でくるんでいる。むしろ、文献のなかでは生硬になりがちな議論を、生きた言葉として芝居のなかに残した、といったほうがよい。
ストーリーは、東京裁判の意味を問うことを主軸にして、在日朝鮮人の問題や米国在住日系人の問題が絡んでくる。そこにフィクションとして、ある唄の誕生の秘密をめぐるサブストーリーが展開する。さらに若い二人の恋や中年夫婦の危機も描かれる。このような盛り沢山の素材が、すっきりと喜劇の枠内に収められている。
これは音楽劇だが、音楽劇にした意図はよくわかる。東京裁判の意味をめぐる台詞が続くと、理屈っぽくなりがちだが、台詞を最小限にとどめて、あとは音楽に移行することによって、芝居の進行を登場人物の心情に転換できるからだ。この手法によって、議論は生き生きとした感情の網の目のなかに収まっていく。
もちろん役者さんによっては、歌が得意な人もいれば、そうではない人もいるが、そのことはあまり苦にならなかった。得意でない人も一生懸命に歌おうとしているその姿に意味があると感じた。
初日だったせいか、意欲が先行して多少前のめりの感じがしたが、それはすぐに微調整されるだろう。また、電話番号に絡むギャグの箇所で、二つ目のギャグがよくわからなかったが、あれは落ちを飛ばしてしまったのではないだろうか。そのような瑕疵はほかにもあったかもしれないが、たとえあったにしても許容範囲だ。
栗山民也さんの演出は、たとえば一つの台詞が発せられた瞬間に、舞台の空気がガラッと変わる、そういう内的なインパクトを丁寧に描いていて、見事だった。
(2010.5.6.新国立劇場小劇場)