Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

高関健/東京シティ・フィル(ティアラこうとう定期演奏会)

2025年03月21日 | 音楽
 東京シティ・フィルのティアラこうとう定期演奏会に行った。指揮は高関健。曲目はベートーヴェンの「コリオラン」序曲とピアノ協奏曲第5番「皇帝」(ピアノ独奏は阪田知樹)そしてチャイコフスキーの「くるみ割り人形」第2幕(全曲)。

 「コリオラン」序曲は内声部の動きもバスの動きも明瞭に聴こえる演奏。いかにも高関健と東京シティ・フィルらしい演奏だった。ただ、惜しむらくは、音の輪郭が鈍かった。このコンビならもっと鮮明な音が出るはずだ。

 高関健はプレトークで、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」について、「この曲は『皇帝』なんて名前が付いているけれど(もちろんベートーヴェン自身が付けた名前ではなく、後世の人が付けた名前だが)、じつはベートーヴェンには珍しいほど幸福感に満ちた音楽ではないかと思う。リハーサルのときにソリストの阪田知樹さんにそう言ったら、坂田さんも『そう思う』と言ったので、今日はそう演奏します」と話していた。

 わたしはその話が腑に落ちた。わたしは今までベートーヴェンの5曲のピアノ協奏曲の中でこの曲が一番苦手だったが(聴いている途中で退屈することがあった)、そう言われるとこの曲の真の姿がつかめたような気がした。

 第1楽章の展開部の滔々と流れるような音楽(=演奏)を聴いていると、幸福感が次第にこみ上げる音楽のように感じられた。さらに白眉は第2楽章だった。ピアノとオーケストラの静かな対話は、親密な二人(恋人同士だろうか)の甘美な語らいのように聴こえた。

 阪田知樹のアンコールが演奏された。甘美に装飾された音楽だ。リストだろうかと思った。阪田知樹がリストを主要なレパートリーにしているからかもしれない。ただ、リストにしては曲が短いとも思った。帰りがけにロビーの掲示を見たら、「ラフマニノフ(阪田知樹編)『ここは素晴らしい場所』12の歌Op.21から第7曲」とあった。

 「くるみ割り人形」第2幕は焦点の合った、すばらしい、そして楽しい演奏だった。弦楽器は12型だったが、十分によく鳴った。管楽器(とくに木管楽器)が大活躍だった。たぶん高関健が意識的に木管楽器を強調していたのだと思う。木管楽器を追うだけでも楽しかった。また、オーケストラがピットに入っていないからだろうか、チェレスタがよく聴こえた。チェレスタは例の「金平糖の踊り」だけではなく、全編を通して、あちこちでアルペッジョをつけたりして、大活躍なのを知った。

 当日は全席完売だった。地元の人々の熱い支持を感じた。
(2025.3.20.ティアラこうとう)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大野和士/都響

2025年03月15日 | 音楽
 都響の定期演奏会Aシリーズで現代ドイツの作曲家イェルク・ヴィトマン(1973‐)の新作「ホルン協奏曲」が日本初演された。ホルン独奏はベルリン・フィルの首席ホルン奏者シュテファン・ドール。指揮は大野和士。

 演奏会が始まる。大野和士が登場する。だが独奏者のドールがいない。あれ?と思っていると、舞台の外からホルンの音が聴こえる。ドールがホルンを吹きながら登場。

 第1楽章「夢の絵」と第2楽章「アンダンティーノ・グラツィオーソ」は切れ目なく演奏される。だが、どこから第2楽章かは、すぐ分かった。ヴィトマン自身がプログラムノートに書いているように、第2楽章ではウェーバーのホルン小協奏曲が引用されるからだ。ウェーバーのその曲がたっぷり演奏される。現代曲を聴いているはずなのに、いきなりウェーバーが始まるので、ちょっとびっくりする。だが、意外に不自然さはない。そもそもそれは演奏会で起きている現象だ。古典の曲もあれば現代曲もある。あらゆる音楽が併存している。同じ現象が一曲の中に起きても良いわけだ。

 第3楽章「サプライズ風スケルツォ」ではロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲から終曲(例の行進曲)やオッフェンバックの「天国と地獄」(例のカンカン踊り)が引用される(言い遅れたが、第2楽章ではベートーヴェンの「歓喜の歌」も出てきた)。明るい活気とユーモアがあふれる音楽だ。ヴィトマンの人気の所以だろう。

 第4楽章「アダージェット」は一転してロマンティックな音楽。第5楽章「中間世界」と第6楽章「予感」は一言では言い表せない不思議な音楽だ。あえていえば、スウェーデンの交響曲作曲家ペッテション(1911‐1980)の一部の曲に通じる情感を感じた。最後の第7楽章「フィナーレ」は再び賑やかな音楽。

 全体を通して、独奏ホルンの超絶技巧はもちろんのこと、独奏ホルンがオーケストラのホルン・パート(4本)と議論を交わしたり、舞台上を歩き回ったりと、シアター・ピース的な要素もある。ヴィトマンがドールを念頭に置いた当て書きの曲だ。たしかにドールの個性が全開になる。

 2曲目はチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。どっしりとした構えの中に、柔軟で、しなやかで、情感豊かな音楽が息づく。長いキャリアを通じてヨーロッパで活動を続ける大野和士の、ヨーロッパの実力派指揮者としての姿が表れた演奏だ。わたしはとくに第1楽章の彫りの深い演奏に惹かれた。第2主題の一音一音かみしめるような演奏と、展開部直前のクラリネット・ソロの息をのむような弱音が印象的だった。
(2025.3.14.東京文化会館)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヴァイグレ/読響「ヴォツェック」

2025年03月13日 | 音楽
 ヴァイグレ指揮読響の「ヴォツェック」。4管編成のオーケストラが舞台を埋める。すごい人数だ。その大編成のオーケストラにもかかわらず、歌手の声がよく通る。今回は演奏会形式上演なので、オーケストラはピットに入らずに、舞台に並ぶ。それにもかかわらず、歌手の声がオーケストラに埋もれない。

 「ヴォツェック」は好きなオペラだ。国内外で何度か観た。だが演奏会形式は初めてだ。オーケストラが何をやっているか、よく分かる。それが新鮮だ。ヴィオラのソロがあり、チェロのソロがあり、コントラバスのソロもある。マリーのアリアにオブリガートを付けるホルンのソロも印象的だ。またチェレスタが明瞭に聴こえる。今までもチェレスタは聴こえていたが、今回は音が浮き出る。

 オーケストラはマッスでは動かないことが特徴だ。あるときはチェロ・パートが動き、またあるときはフルート・パートが動く。オーケストラが細分化されている。各パートに短い動きが頻出する。マッスで動くのはヴォツェックがマリーを殺害する第3幕第2場の後奏くらいだ。ベルクのもうひとつのオペラ「ルル」はもっとオペラ的だ。「ヴォツェック」は「ルル」とは異なる独自の音楽だ。

 舞台上演を観ると、演劇的なおもしろさに流されがちだ。それほどビュヒナーの原作はおもしろい(原作といっても、走り書きのような断片が残っているだけだが)。またこのオペラを上演するとなると、演出家が腕によりをかける。その演出にも関心が向く。結果、音楽への注意力がおろそかになっていたかもしれない。

 ヴァイグレ指揮読響の演奏は見事だった。各パートがあれほど俊敏に動き、加えてパート間の連携が緊密で、全体として織物のようなテクスチュアを築き上げるとは驚嘆に値する。また情感の表出が豊かだ。さらにはオペラ全体(3幕×5場=15場)のバランスが取れている。たとえば表現力豊かな第3幕第4場の後の間奏曲も、それだけが突出しない。

 歌手も良かった。ヴォツェック役はサイモン・キーンリーサイド。貧困に苦しみ、周囲の人物(大尉と医者)を乗り越えられず、最後には自分に残された唯一のもの(愛人のマリー)を鼓手長に奪われて、精神が崩壊するヴォツェックを歌って説得力があった。

 医者はファルク・シュトルックマン。堂々とした声と彫りの深い発音が別格だ。マリーのアリソン・オークスは強い声の持ち主だ。大尉のイェルク・シュナイダーと鼓手長のベンヤミン・ブルンスも適役だ。日本人の歌手たちも健闘した。新国立劇場合唱団とTOKYO FM少年合唱団も文句ない。
(2025.3.12.サントリーホール)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高関健/東京シティ・フィル

2025年03月09日 | 音楽
 東京シティ・フィルの定期演奏会。高関健の指揮でヴェルディの「レクイエム」。前日にカーチュン・ウォン指揮日本フィルでマーラーの交響曲第2番「復活」を聴いたばかりだ。2曲はともに「死」に向き合った作品だ。普通はヴェルディの「レクイエム」とマーラーの「復活」を比較することはないだろうが、連続して聴くと、どうしても比較する。前述のように、2曲は「死」というテーマで共通するが、音楽の性格はそうとう違う。その端的な表れは「最後の審判」を告げるラッパの音だろう。

 マーラーの「復活」の場合は、第5楽章の冒頭の激しい導入部が収まった後に、舞台裏からホルンの響きが聴こえる。遠い不思議な響きだ。墓の中に眠る死者たちは「あれは何だろう」と思う。やがてそれが最後の審判を告げるラッパの音だと気づく。墓の蓋が開き、死者たちは蘇る。

 一方、ヴェルディの「レクイエム」の場合は、第2曲「セクエンツィア(続唱)」の中の「トゥーバ・ミルム(驚くべきラッパが)」で最後の審判のラッパが鳴る。4本のトランペットが舞台上で(今回はオルガン席の前のPブロックで、オルガンをはさんで左右2本ずつに分かれて)高らかに吹奏する。死者たちはすぐに目覚めるだろう。今回の演奏では、そのトランペットの音が美しかった。

 今回オーケストラは終始一貫ヴェルディらしい音を鳴らした。明快で張りのある音だ。それは東京シティ・フィルの実力向上の表れだが、同時に、高関健とヴェルディとの相性の良さを感じた。高関健のストレートな音楽性は、意外にヴェルディに合うようだ。今まで高関健とヴェルディを結び付けて考えることはなかったので、新しい発見だ。

 独唱者4人は、それぞれ歌唱スタイルが異なっていたが、各人各様に頑張った。ソプラノの中江早希は声に伸びがあった。ヴェルディ特有のドラマティックな音楽の動きの上に中江早希の高音が大きな弧を描く。その美しさに説得力があった。一方、第7曲「リベラ・メ(私を解き放って下さい)」の冒頭部分はドラマ性が弱かった。

 アルトの加納悦子はさすがに彫りの深い歌唱だ。第2曲「セクエンツィア(続唱)」(「ディエス・イレ(怒りの日)」から「ラクリモサ(涙の日)」までの9曲からなる)の要所を引き締めた。テノールの笛田博昭は徹頭徹尾オペラ歌手だ。若手の有望株らしい。今後活躍するだろう。バリトンの青山貢はベテランらしく安定した歌唱だった。

 合唱の東京シティ・フィル・コーアにはもう一段の精度がほしい。少数精鋭ではなく、大人数だったからだろうか。
(2025.3.8.東京オペラシティ)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カーチュン・ウォン/日本フィル

2025年03月08日 | 音楽
 日本フィルの定期演奏会は金曜日と土曜日にある。わたしは土曜日の定期会員だが、3月は都合により金曜日に振り替えた。

 指揮はカーチュン・ウォン。曲目はマーラーの交響曲第2番「復活」。第1楽章の冒頭のテーマが歯切れのよい音で鳴った。このテーマはだれがやっても激しい演奏になるわけだが、カーチュン・ウォンの場合は、そこに歯切れのよさが加わる。

 注目したのは、嵐のようなそのテーマが過ぎた後の穏やかな部分だ。音から緊張感が抜けて、リラックスした音に変わった。そのコントラストが鮮やかだ。同様にテンポも、冒頭のテーマはきわめて速く、穏やかな部分は遅めに演奏された。やはりコントラストがはっきりしている。第1楽章はそれらの対比がおもしろくて、あっという間に過ぎた。

 第2楽章もおもしろかった。普段はあまり印象に残らない楽章だが、カーチュン・ウォンは細かいニュアンスを施す。それがおもしろくて、これもあっという間に過ぎた。

 第3楽章はピンとこなかった。いうまでもなく、マーラーの「子どもの魔法の角笛」から「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」にもとづく楽章だが、原曲のもつ諧謔味が出ない。あっさりと流れるように進む。歌唱パートを省くと(=歌詞から離れてスコアをまっさらな状態で読むと)こうなるのかと訝った。

 第4楽章は好きな楽章だ。第3楽章と同様に「子どもの魔法の角笛」から「原光」を、今度は声楽付きで、そっくり挿入したわけだが、(天使から拒まれたにもかかわらず、なお神に近づこうとする)その音楽は感動的だ。だがわたしは躓いた。メゾソプラノ独唱は清水華澄だったが、わたしは高音に違和感をもった。どういえばよいのか。あえていえば、高音が喉の浅いところから出ているように感じた。清水華澄は何度も聴いたことのある歌手だ。とくに西村朗のオペラ「紫苑物語」の怪演は脳裏に焼き付いている。だが今回は勝手が違った。

 第5楽章は最後の大団円が圧倒的だった。オーケストラは華麗に鳴り、東京音楽大学の合唱もすばらしかった。ソプラノの吉田珠代もよかった。バンダとオルガンが加わり、光り輝くような音響が鳴った。第1楽章から続いた(どちらかというと、ゆったりした部分の)弱音に細心のニュアンスを付けた演奏は、大団円の音響とのコントラストを最大化するための設計だったのかと思った。

 終演後は大喝采が起きた。カーチュン・ウォンは聴衆とのコミュニケーションが取れる指揮者だ。ラザレフもそうだ。日本フィルはそのようなタイプの指揮者が似合う。
(2025.3.7.サントリーホール)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする