Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

森岡実穂「『夢遊病の女』演出上の7つのキーポイント」

2024年10月19日 | 音楽
 新国立劇場の「夢遊病の女」の公演プログラムに森岡実穂氏の「『夢遊病の女』演出上の7つのキーポイント」というエッセイが載った。森岡氏が「夢遊病の女」の諸映像を参照しつつ、演出上のポイントを紹介したものだ。

 わたしが注目したのは、ヨッシ・ヴィーラーとセルジオ・モラビトの演出(2011年、シュトゥットガルト歌劇場)とヨハネス・エラートの演出(2023年、ライン・ドイツ・オペラ)だ。ともにロドルフォ伯爵の前史を設定する。久しく故郷を離れていたロドルフォ伯爵が、父伯爵が亡くなったために、新領主として故郷に戻ってくるわけだが、そのロドルフォ伯爵が故郷を離れていたわけは、村の娘を妊娠させたからだという設定だ。

 ロマーニの台本にはそこまで書いてはいない。だがロドルフォ伯爵の登場の場面で、ロドルフォ伯爵は過去の過ちを悔悟し、不幸な村娘がいたと歌う。さらに村人たちに祝福されるアミーナを見て、その村娘に似ていると驚く。ならば当然ヴィーラー&モラビトやエラートが設定したような前史が想像される。両演出は前史をその後のストーリー展開に反映させた(もちろん展開の仕方は各々異なる)。「夢遊病の女」は牧歌的といわれるが、両演出では男性側(ロドルフォ伯爵とエルヴィーノ)の加害性が浮き彫りになる。

 森岡氏のエッセイでは他にも多くの演出が紹介される。その中で一つだけわたしの観た演出があった。メアリー・ジマーマンの演出(2009年、メトロポリタン歌劇場)だ。観たといっても実際の舞台ではなく、METライブビューイングで観たのだが、そのときの衝撃は大きかった。

 ジマーマンの演出では、アミーナ役の女性歌手とエルヴィーノ役の男性歌手が実際に恋人同士という設定だ。幕が開くと、舞台は稽古場になっている。そこでは「夢遊病の女」の稽古が進行中だ。やがてアミーナ役の歌手がロドルフォ伯爵のベッドで寝ているのが見つかる。エルヴィーノ役の歌手は嫉妬に狂う。オペラと実生活が重なる。言い換えれば、虚実の境目が混乱する。「作者をさがす6人の登場人物」などで知られるイタリアの劇作家・作家のピランデッロの作劇術にならった演出だ。

 以上の演出にくらべると、新国立劇場のバルバラ・リュックの演出は、むしろ大人しいほうだろう。だからその分、新国立劇場向けだったかもしれない。

 そのバルバラ・リュック演出は、アミーナの不安を繊細に表現し、最後の不安からの脱却(バルバラ・リュックはそのように演出した)を説得力のあるものにした。ベッリーニのオペラの中では(最初期の作品を除いて)台本が弱い「夢遊病の女」を救い、現代に生きるオペラにした。ベッリーニ好きなわたしはとても嬉しい。
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新国立劇場「夢遊病の女」

2024年10月15日 | 音楽
 新国立劇場の新制作「夢遊病の女」。マドリッドのテアトロ・レアル、バルセロナのリセウ大劇場、パレルモのパレルモ・マッシモ劇場との共同制作だ。幕が開く。舞台中央に高い木が一本立つ。そこに一対の若い男女の人形が吊り下がっている。結婚を控えたアミーナとエルヴィーノだろう。幸せなはずの二人だが、その人形はあまり幸せそうには見えない。周囲は切り株だらけ。荒涼とした森の中だ。背景はオレンジ色の空。夕日だろうか。幻想的な弱々しい光だ。

 霧が立ち込める。霧にまかれてアミーナが立つ。ふらふらしている。夢遊病の中にいるアミーナだ。何人もの不気味なダンサーが登場する。アミーナを威嚇するように、また時にはアミーナを支えるように踊る。アミーナが見る夢だ。アミーナは結婚を控えて何か不安があるのだろうか。エルヴィーノにたいする疑問だろうか。

 以上の黙劇が終わると音楽が始まる。アミーナとエルヴィーノの結婚を祝う村人たちの合唱だ。だが黙劇を見た後なので、村人たちの祝福を受けるアミーナの胸の内にひそむ(本人も気が付かない)不安を想像する。その不安が、オペラ全体を通して、要所にダンサーが登場して表現される。それがこのオペラを牧歌的なオペラから救う。最後にアミーナは不安を克服する。アミーナはエルヴィーノと結婚するのか。それとも村を去るのか。それは幕が降りた後のアミーナに任せられる。

 演出はスペインのバルバラ・リュックという女性演出家。一本筋が通り、その筋に沿ってアミーナの内面を繊細に表現した。結末の処理も納得できる。台本通りにやると学芸会的になりかねないこのオペラを、現代に生きるオペラへと変貌させた。

 アミーナ役はクラウディア・ムスキオ。すばらしいベルカントだ。7月にシュトゥットガルト歌劇場でこの役を歌ったそうだ。それに加えて、マウリツィオ・ベニーニの指揮で歌った今回の公演の、その最終日だったこともあり、ベニーニの薫陶の成果が表れたのではないだろうか。旋律線の細かい部分のニュアンスに惚れ惚れした。

 エルヴィーノ役はアントニーノ・シラグーザ。言わずと知れた名歌手だ。今回も高度な歌唱を披露した。だが、さすがに年齢を重ねたためか、声の伸びと軽さにかげりが出始めたかもしれない。ロドルフォ伯爵役は妻屋秀和。堂々とした声と押し出しは健在だ。

 ベニーニの指揮はすばらしい。オーケストラの細い音で歌手の声を支え、しかもその細い音がけっして貧弱にはならずに生気がこもる。ドラマティックな面にも事欠かない。ベルカント・オペラのすべてが表現された感がある。
(2024.10.14.新国立劇場)
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ウルバンスキ/東響

2024年10月13日 | 音楽
 ウルバンスキが指揮する東響の定期演奏会。1曲目はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏はデヤン・ラツィック。わたしは初めて聴くピアニストだ。濃厚なロマンティックな表現も、また聴衆を熱狂させるダイナミックな表現もある。加えて、生き生きしたリズム感がある。そのリズム感はたとえば第1楽章の展開部に現れた。何でもない淡々とした流れがそのリズム感で生き生きした音楽になった。全般的にオーケストラのバックも雄弁だった。濃厚なロマンティシズムはラツィックに劣らなかった。

 ラツィックはアンコールに不思議な音楽を演奏した。何ともつかみどころのない音楽だが、リズムに魅力があり、鮮明な印象を残した。だれの何という作品だろうと思った。ショスタコーヴィチの「3つの幻想的舞曲」よりアレグレットとのこと。ショスタコーヴィチとは思わなかった。曲が変わっているのか、それとも演奏が変わっているのか。

 ラツィックは大変な才能だ。クロアチアのザグレブ出身とのこと。プロフィールには年齢が書いてないが、指揮者のウルバンスキと同世代だとすれば(見た目にはそう見えた)40歳前後か。特徴のあるピアニストだ。

 2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第6番。実演ではめったに聴く機会のない曲だが、そんなレアな曲の、これは名演だった。わたしの今までの経験では、ラザレフ指揮日本フィルの演奏が記憶に鮮明だが、それに次ぐ名演(性格は異なるが)に接した思いがする。

 いうまでもなく本作は3楽章からなり、緩―急―急の変則的な構成だが、その第1楽章の濃密な音の世界(音楽の進行につれて濃密さが増す)、一転して第2楽章、第3楽章と諧謔性を増し、最後は躁状態のバカふざけに至る流れが、じつにスマートに、しかも鮮烈に表現された。東響も個々の奏者の妙技が光った。とくに第1楽章後半のフルート・ソロが存在感のある演奏だった(竹山愛さんだったろうか)。

 久しぶりに聴くこの曲はおもしろかった。英雄的な交響曲第5番の次に来る曲だが、英雄的な要素は皆無で、悲劇的な要素(第1楽章)とおどけた要素(第2楽章・第3楽章)からなるこの曲は、大方の期待を裏切り、戸惑わせただろう。それをどう考えたらよいか。形式的には緩―急―急の構成は直前の弦楽四重奏曲第1番を踏襲する(弦楽四重奏曲第1番の場合は緩―緩―急―急)。また内容的には、おどけた要素は交響曲第9番に通じる。そんな微妙な位置にある曲だ。

 ウルバンスキはますます脂がのっている。2024/25年のシーズンからは母国ポーランドのワルシャワ・フィルとスイスのベルン響の音楽監督に就任したそうだ。
(2024.10.12.サントリーホール)
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ヴァイグレ/読響

2024年10月10日 | 音楽
 読響がヴァイグレの指揮で10月13日~24日までドイツとイギリスへ演奏旅行に行く。昨夜の定期演奏会ではそのプログラムのひとつが披露された。

 1曲目は伊福部昭の舞踊曲「サロメ」から「7つのヴェールの踊り」。中近東風のエキゾチックな音楽と伊福部昭流の土俗的なリズムが交互に現れる曲だ。ドイツやイギリスの聴衆には未知の日本人版の「7つのヴェールの踊り」として話題になるかもしれない。演奏はヴァイグレ/読響らしくがっしり構築したもの。最後の熱狂的な盛り上がりはさすがに迫力があった。

 2曲目はブラームスのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏はクリスティアン・テツラフ。もう何百回も(?)弾いているだろうこの曲を、テツラフはまるで名優の語りのように雄弁に演奏した。音楽の中に入り込み、その音楽を生きるような演奏だ。リズムの正確さとか拍節感とか、そんなレベルを超えたテツラフ流の演奏だ。音は細いが、その細い音に異様なまでの熱がこもる。

 それに対するヴァイグレ/読響の演奏は、(悪い意味ではなく)ごつごつと角張った、最近では珍しいくらいにドイツ的な演奏だ。テツラフの自由なヴァイオリン独奏と、一言半句もゆるがせにしないヴァイグレ/読響の演奏と、そのコントラストが際立った。

 テツラフはアンコールにバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番から「ラルゴ」を演奏した。澄みきった音のバッハだ。ブラームスのヴァイオリン協奏曲でヴァイオリン独奏に渦巻いた熱を冷ますような演奏だった。

 3曲目はラフマニノフの交響曲第2番。これも大変な熱量の演奏だった。甘美な音から重厚な音まで駆使して、歌うべきところはたっぷり歌い、盛り上げるところは劇的に盛り上げる。けっして流麗な演奏ではない。むしろ粗削りな部分を残す。言い換えれば、仕上げの良さよりも音楽の熱量の解放を重視した演奏だ。ヴァイグレが感じているこの曲は途方もなく大きいのではなかろうかと思う。

 正直にいうと、わたしはヴァイグレのことがいまひとつ掴めない。たとえば2021年1月に演奏したヒンデミットの「画家マティス」は、角を取った丸みのある音で滑らかに流れる演奏だった。わたしはそのとき、ヴァイグレはドイツの指揮者だが、かつてのドイツの指揮者とはタイプが違うのかと思った(当時ある音楽ライターは「オーガニック」と評した)。だが今回の演奏を聴くと、現代のドイツの指揮者のだれよりも、かつてのドイツ流の演奏スタイルを保持している。ヴァイグレはそこに落ち着くのだろうか。
(2024.10.9.サントリーホール)
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出口大地/日本フィル

2024年10月06日 | 音楽
 最近、出口大地(でぐち・だいち)という指揮者の名前をよく見かける。どんな指揮者だろうと思っていた。日本フィルの横浜定期に登場するので、楽しみにしていた。結論から先にいえば、とても良い指揮者だと思った。

 1曲目はハチャトゥリアンの「スパルタクス」より「スパルタクスとフリーギアのアダージョ」。出口大地は2021年のハチャトゥリアン国際指揮者コンクールで優勝したので、ハチャトゥリアンを演奏する機会が多いのかもしれない。それもキャリアの形成期には名刺代わりになるだろう。当夜の「アダージョ」では冒頭の弦楽器の音の繊細さに惹かれた。以後もその印象は損なわれなかった。

 2曲目はカバレフスキーの組曲「道化師」。ギャロップが圧倒的に有名だが、組曲全体を聴くのは初めてかもしれない。プロローグは聴いたことがあると思った。その他の曲は(組曲は全部で10曲からなる)記憶がないが、どれも面白かった。演奏はリズムが軽くてチャーミングだった。

 3曲目はチャイコフスキーの「ロココ風の主題による変奏曲」(フィッツェンハーゲン版)。チェロ独奏は鳥羽咲音(とば・さくら)。プロフィールによると2005年生まれなので、今年19歳だ。いまはベルリン芸術大学に在学中。テクニックがしっかりしていて、楽器も鳴る。もっと大きな曲でも良さそうだ。アンコールにプロコフィエフの「マーチ」が演奏された。

 休憩後、4曲目はムソルグスキーの「展覧会の絵」(ラヴェル編曲版)。冒頭のトランペットの柔らかくて伸びのある音に惹かれた。ソロ・トランペット奏者のオッタビアーノ・クリストーフォリは降り番で、日本人の奏者が吹いていた。以後、その奏者に注目した。「サミュエル・ゴールデンベルクとシュミュイレ」の中間部も安定感がある。優秀な奏者だ。だれだろうと、帰宅後調べてみた。犬飼伸紀という人だったようだ。

 演奏全体は音がきれいなことが特徴だった。出口大地の指揮は、力まず、変に音楽をいじらずに、音色のイメージが明確なようなので(加えて、フレーズの入りを合わせやすい指揮のようだ)、オーケストラは演奏しやすいのではないだろうか。それが音の美しさにつながったと思う。しかもそれだけではなくて「バーバヤガー(鶏の足の上に立つ魔女の小屋)」の出だしではダイナミックで鋭角的な演奏をした。出口大地はオーケストラにとって合わせやすいだけではなく、踏み込んだ表現もする指揮者だ。

 書き落としたが、出口大地は指揮棒を左手で持つ。加えて、右手の動きも雄弁だ。ユニークな両手の動きから、新鮮な音楽が流れる。
(2024.10.5.横浜みなとみらいホール)
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