後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔660〕「宇喜多直家・秀家が生きた時代」という歴史講演会が開催されました。(矢部顕さんから)

2024年02月18日 | メール・便り・ミニコミ

●久しぶりに講演会を開催しました

福田三津夫様
 この3年間はコロナ禍で実施できなかった講演会を久しぶりに開催することが出来ました。ブランクがあると準備するさまざまな仕事を忘れていますし、歳のせいもありまして、モタモタ しながらやっていました。
 先日、2月10日、わたくしたち亀山城跡保存会が主催しました「郷土の歴史講演会」は無事終わりました。 
「宇喜多直家・秀家が生きた時代」という演題で、小説『宇喜多の捨て嫁』、『宇喜多の楽土』 を上梓した歴史小説家の木下昌輝氏を講師とした講演会でした。 
 岡山では昨年11月に、市長を先頭に官民一体で「戦国武将 宇喜多家を顕彰する会―大河ドラマ化をめざしてー」なるものが発足しました。
 その影響があったのかどうかわかりません。久しぶりの開催だからか、講師のせいなのか、例年は100名~150名の参加者なのですが、今回は、会場いっぱいいっぱいの約190名ほどの参加者がありました。 
 来年は、「宇喜多家を支えた家老で謎のキリシタン武将―明石掃部」をテーマにしたいと、個人的には密かに思っています?。(明石掃部については、別紙「八丈島赦免花伝説」でふれています)
 チラシと写真を添付します。


 亀山城は岡山城の前身の城で、戦国武将宇喜多直家が備前を支配する拠点となった城です。秀吉の五大老のひとりの宇喜多秀家は直家の息子として亀山城で生まれたとされています。
 チラシのイラストは、赤ちゃんの秀家を抱いたおふくさんが、夫の直家の出陣を見送っている光景です。
 秀家は、関ヶ原の戦いで西軍の主力として戦いましたが、敗れてしまい、徳川によって八丈島に島流しとなりました。島で50年生きて、83歳出なくなりました。戦国武将としてはたいへん長生きしましたが、彼も子孫も流罪が赦されることはありませんでした。赦免状が届いたのは徳川時代が終わった明治になってからでした。詳しくは、4年ほど前に書いた別紙「八丈島赦免花伝説」をお読みください。
                                   矢部 顕
 

                    八丈島赦免花伝説
                      ―亀山城跡に移植された蘇鉄に花が咲いた―


                                                            亀山城跡保存会事務局長
                                                                   矢部  顕
●秀家ゆかりの蘇鉄が贈られてきた
  関ヶ原の戦いで、西軍の主力として戦い敗れた宇喜多秀家は、徳川によって八丈島へ流刑となった。八丈島で、秀家が手ずから植えたとされる蘇鉄の株分けされたものが、秀家顕彰会「八丈島久福会」から岡山市に贈られてきた。秀家没から360余年の時空を越えて生誕地である亀山城に移植された。
                                      *
 我が家の裏の小山に亀山城があった。山陽道を見下ろす交通の要所。戦国武将・宇喜多直家の居城で、備前を支配したのち岡山城に移った。息子の秀家はここ亀山城で生まれたとされる。小山の裾に我が家はあるが、まわりは沼で天然の堀の役目をした。小山は沼に浮かぶ亀の形。(我家の今の住所は、岡山市東区沼)
 豊臣秀吉の備中高松城の水攻めのときは、ここで黒田官兵衛らと作戦を練ったともいわれる。水攻めのさなか、本能寺の変が起こり、秀吉は2万の大軍を引き連れて京に引き返す。世に言う「中国大返し」である。
 秀家は秀吉に可愛がられて、若くして五大老のひとりにまで登りつめた。秀吉の養女として育てられた豪姫を娶ることになる。直家の跡を継いで、岡山の町の基礎をつくった。
 豊臣政権の貴公子と呼ばれた秀家は、秀吉の朝鮮出兵では大将をつとめたりして、最後が関が原の戦いである。潜伏、亡命、流罪と、関が原後も生き抜いた執念の男で、八丈島での生活は50年にもおよぶ。戦国武将で83歳まで長生きした例は他にない。

●蘇鉄に花が咲いた
  この秀家ゆかりの蘇鉄に花が咲き、実をつけた。10月14日に植樹式をして亀山城跡に移植して1か月、11月のこと。
  蘇鉄の花が咲いて思い起こすのは赦免花伝説である。
  八丈島は1606年の宇喜多秀家遠島以来260年間、流人の島の時代が続いた。その間、1898人が流罪でこの島に送られた。初期は、主に政治犯、国事犯などの人が多く、教養ある博識な人が多かったため島民はこの流人たちを歓迎したと言われる。

●赦免花伝説
  罪が許されると赦免状が届き、その罪人は本土に帰ることが出来る。当時は、秀家の菩提寺である宗福寺の蘇鉄の花が咲くと赦免状が届く前触れと言われた。花が咲くことは流人にとっては狂おしいほどに期待をもったことであったであろう。
  赦免は、たとえば文政年間には69人、天保年間には41人、弘化年間には64人、嘉永年間には34人など計10回におよんだとか。あわせて741人に赦免状が届いた。
  しかし、宇喜多秀家とその末裔にたいしては何の沙汰も無かった。長い流罪の生活に終わりをつげたのは、徳川の江戸時代が終わった、明治元年の恩赦によってであった。

●食料を送り続けた前田家
秀家の妻・豪姫は島への同行は許されず、実家の加賀前田家にもどった。
宇喜多家の家老・明石掃部全登は黒田官兵衛の影響からかキリシタンで、城下の民2000人(20人でもなく、200人でもなく!)に洗礼を受けさせたという。我が家のそばを流れる砂川の川底からはマリア像の破片などが出土する。家老・明石掃部全登からすすめられたかどうか知らぬが、豪姫はキリシタンだった。
 豪姫は、八丈島の秀家らに食料を送りたいと徳川に願い出たが許されず、自らの信仰を捨てる、すなわちキリスト教を棄教することを条件に許された。
  加賀の前田家は、秀家ならびに子孫一族のために食料と医薬品を、明治の恩赦があるまで八丈島へ送り続けた。徳川の怨みもここまでやるかと思うが、一度決めたら260年貫き通す前田家の代々の姿勢にも驚く。これらのことは日本の歴史上たぐい稀なできごとではないだろうか。
    移植されたばかりの蘇鉄に花が咲いたということは、令和元年の恩赦があるということなのか。それとも、八丈島で生涯を終えた秀家の御霊が、自らの生誕地に蘇鉄とともに帰って来たと喜んでいるからであろうか。       (2019.12.8)


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