後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔473〕鈴木清隆さんによる橋本義夫論3部作『危機の克服』『探求と記録』『無所有の所有』が発刊されました。

2022年05月16日 | 図書案内
 同世代の鈴木清隆さんから大部な橋本義夫論3部作『危機の克服』『探求と記録』『無所有の所有』が送られてきました。その厚さゆえ、郵便受けから取り出すのが一苦労の大作でした。

・橋本義夫論Ⅰ『危機の克服』B5版150頁 頒価:1000円+送料
・橋本義夫論Ⅱ『探求と記録』B5版186頁 頒価:1000円+送料
・橋本義夫論Ⅲ『無所有の所有』B5版174頁 頒価:1000円+送料
           いずれも、『模索』編集室(0426-91-4648)発行









 以前にいただいた『模索4』(ブログ280で紹介。私との関係などにも触れています。)に「橋本義夫の見た光景」が収録されていましたが、鈴木研究がそれとはまた別稿の橋本義夫論で、まさかB5版で合計500頁を超える大研究になるとは想像もできませんでした。
 正直に告白してしまうと、浅学な私は橋本義夫という人物がどういう仕事をしたのか、ほとんど知らなかったのです。そこで、手っ取り早く電子辞書に頼ることになりました。

◆ウィキペディアより
橋本 義夫(はしもと よしお、1902年(明治35年)3月13日 – 1985年(昭和60年)8月4日)は、自分史の先駆的な試みである「ふだん記(ぎ)運動」の理論的指導者である。

□来歴・人物
東京府南多摩郡川口村字楢原(現・東京都八王子市楢原町)に、郡会議員を務めた農業・橋本喜市の二男として生まれる。1920年府立農林学校を卒業後は家業を手伝う傍ら、トルストイ・武者小路実篤・内村鑑三らの著作に親しみ、志を同じくする青年たちと共に生活改善運動や農村図書館設立運動に取り組む。1928年には八王子市の繁華街・横山町に書店「揺籃社」を開業する。青年層の理想主義に訴えるような良書を多く取り扱い、やがて多摩地区の文化センター的な存在となっていった。

非戦論者であった橋本だが、1941年太平洋戦争が勃発すると、「敗戦となれば人民が惨苦を負担」することになるとして戦争協力の意向を固め、軍部に義捐金の寄付を行うなどしたという。ほどなくして彼我の生産力の格差から日本の敗戦を確信し、東條英機首相への直訴を計画したりもした。1944年11月、治安維持法違反のかどで拘引され、5ヶ月間の留置場暮らしを経験する。1945年8月2日の八王子空襲によって揺籃社と楢原の生家を消失し、蔵書の大半を失った。

終戦後の1946年、自らの戦争責任を厳しく断罪する「戦争犯罪自己調書」をしたため、「懲罰」として「青年・少年・未来の人民のために奉仕すること」を自らに課す。以後、無名のまま埋もれた郷土史上の人物を顕彰する「建碑運動」に取り組んだり(有名な碑の一つに、八王子市鑓水の「絹の道碑」(1957年建立)がある)、地元の文化・歴史の研究活動に尽力した。

1968年、「文章は一部の特権階級や文章職人のものではなく、万人のものであるべきだ」との問題意識の下に、『ふだんぎ』創刊号を発行する。橋本は繰り返し「下手に書きなさい」と訴え、投稿者には必ず褒める返事を書いた。1970年歴史学者色川大吉が『朝日新聞』紙上にてふだん記運動を紹介したことで参加者が増え、全国的な拡がりを持つこととなった。色川は「民衆の新原理を追求した新常民運動」であると評価している。『ふだんぎ』は2007年10月刊行分まで通算114号を数え、現在全国で15のグループが活動中である。

1985年8月4日、胃癌のため逝去。享年83。
□参考文献
小倉英敬『八王子デモクラシーの精神史 橋本義夫の半生』(日本経済評論社、2002年)


 鈴木さんからは3部作を「批評してください」とメモ書きがあったのですが、批評などできる知識と能力を私は持ち合わせていませんので、紹介だけさせていただきます。
 まずは、各巻の構成です。各巻とも、「はしがき」と「あとがき」が書かれていますが省略します。

・橋本義夫論Ⅰ『危機の克服』
Ⅰ 橋本義夫における記憶と記録
Ⅱ 詩集『雲の碑』について
Ⅲ 精神形成における危機の克服
Ⅳ 『古代・中世地方史研究法稿』の独創性

・橋本義夫論Ⅱ『探求と記録』
Ⅴ 他者としての母の発見
Ⅵ 「戦争犯罪自己調書」について
Ⅶ 「庶民」と「地方」とは何か
Ⅷ 「困民党事件」論考について

・橋本義夫論Ⅲ『無所有の所有』
Ⅸ 『老枯日記』について
Ⅹ 「ふだん記」運動について
資料1 年譜
資料2~4 ふだん記運動関連
参考文献一覧


 最初に私が紐解いたのはⅢ巻の「年譜」からでした。年譜から興味を持ったことは以下のことです。
 橋本が小学校に入学したのは、現・八王子市立陶鎔小学校でした。昨年私が教育実習指導で3回訪れた学校です。100年を優に超える伝統のある学校で、強く印象に残っています。
 八王子の書店、揺籃社を創設したのも彼でした。鈴木さんからかつていただいた、さねとうあきらさんと鈴木さんの対談集『対話-児童文学と国語教育をめぐって』は揺籃社発行です。いつぞや朝日新聞に揺籃社のことが取り上げられていたのを記憶しています。
 橋本は戦前に北方教育運動に関心を持ち、城戸幡太郎などの教育科学研究会のメンバーが八王子を訪れているのでした。
 そして、色川大吉さんとの交流。彼の紹介によって橋本が一躍全国区へと評価・認識されたと鈴木さんは書いています。「色川大吉氏は橋本義夫を発掘しその業績の異議と価値をひろく世に知らしめた方です。」とあります。

 鈴木さんの橋本義夫研究は著作を読み解くことと橋本の住居や出かけた場所を「追体験」することでした。前者が今回の3部作、後者が『模索3』『模索4』に結実しました。
  鈴木さんは色川大吉を大いにリスペクトしながらも、異なった視点からの橋本義夫論を提起したと書いています。今、色川論文と鈴木3部作を少しずつ読んでいこうかと思案しているところです。



 以上、本当に雑駁な紹介になってしまいましたが、興味を持たれた方は是非現物を手に取ることをお勧めします。

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