江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

江別川は生活道路2

2019年05月27日 | 歴史・文化

 千歳方面からの木炭の搬入は、30年代以降、川船が定期的に行き交うほど活発化しました。

 例えば、44年の「江別村勧業統計」によると、千歳・漁方面から江別への木炭搬入は、22万6千貫、追分・栗山方面からは14万8千貫を搬入しました。
そのうち、江別での消費高は、24万8千貫、残余は貨車で江別駅から小樽方面へ送られました。

 明治期から薪炭業に携わった備後直蔵の息・博外の話を総合すれば、千歳行には3人が乗り込みました。
一人が船尾で舵を取り、後の二人が棹で押していきます。舞鶴か漁太で一泊、千歳・ネシコシへは2日かけ上がりました。
ただ、風向きの良い時は、帆をかけました。
帆の高さ15尺、幅10尺ほどのもので、これは木綿布を麻糸で縫います。
備後の場合、町内の達者な女性の内職で作ってもらったそうです。
順風満帆、この場合は1日で千歳に着きました。ちなみに言うと、備後のほか、この時期の江別の薪炭商業兼舟運者として、松生、近藤、志田らの名前が伝えられています。

 明治末から大正期にかけた江別川舟運の寄港地と、そこまでの貨物一個分の料金を示しました。
江別川舟運は、3系統に分かれました。
本流の終点千歳橋に一直線走るものと、幌向運河から幌向市街へ、馬追運河から長沼市街へ、あるいは夕張川を栗山方面へと、文字通り四通8達でした。

 これに石狩川舟運、それに数多くの渡り舟を加えると、江別の版図上、毎日大小の舟が上り下りを繰り返す鳥瞰の絵図が目に浮かびます。
この時期、舟運は人びとの生活の手足であり、川は生活道路でもありました。


註 :江別市総務部「新江別市史」221-222頁.
写真:明治40年代の江別港と江別橋
 同上書221頁 写真4-12掲載写真を複写し、江別創造舎ブログおよび江別創造舎facebookiに掲載いたしております。


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