江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

江別兵村の風土と文化

2018年10月22日 | 歴史・文化

 江別兵村の伊東正美の子、歌人・音次郎は、明治45(1,912)年春、19歳の時兵村を脱出しました。
「私の怠慢を戒め、私の鋤を握らぬ事を罵り、私が小本を持って一日道を逍遥したことを蔑んだ人々」(『郷党より』音次郎)に背を向け、東京へと旅立ったのでした。

 兵村は、囲いがない兵営でした。兵屋は兵舎であり、兵員だけでなく、家族も軍律のもとに置かれていたのです。
だから「小本を持って一日道を逍遥した」音次郎の姿は、「兵村ノ面目ニ拘ハルノミナラズ、将来ノ発達ニモ属」する風儀の乱れと咎められたのでしょう。
なにせ、「兵村ハ汝等ガ墳墓ノ地ト定メ 子孫繁栄ノ基ヲ開ク場所ニシテ 汝等ハ及チ其祖先ナレバ」「兵村公共ノ為ニハ 一身一家ノ利益」(『屯田兵員及ビ家族教令』)などに思いをいたすべからず。それが全てでした。
事実、兵農と公共の義務を果たすこと以外は遊びとみなされ、指弾される、そうした風土が形成されていました。

 兵村の生活規範は、勤倹力行であり、忠孝の道であり、武勇を尚部、それにつきていました。当然のこと生活は、極度に切り詰められ、簡素を旨としていました。初期は、稲作が禁じられていたこともあり、米食は正月やお盆など、ハレの日のみ。いわば、食い伸ばしのため、普段は芋、そば、南瓜、あわ、などを代用食としていました。その代表が芋だったのです。芋三升に米三合の混合食、芋飯は屯田の代名詞でもあったのです。

屯田兵 屯田兵
何に食ふ 芋食ふ
どうして食ふ
どうか こうか 食ふ   (兵村の「口遊び」)

 祝儀、不祝儀も簡素を旨としていました。結婚の場合事前に中隊長に届けなければいけませんでした。花嫁ダンス、長持などを持参するのは、かなり後年の話しでした。葬祭も、初期には手製の棺桶を使っていました。勤倹は美徳であり、力行は至高の規範でした。

 娯楽や遊びにおいても、棒押し、力持、競馬、戦争ごっこ、陣取り、兵隊カルタなど武勇系が尚ばれました。女子は、手鞠やお手玉、縄跳びなどでした。

たんたん太鼓 豆太鼓
油でしょうなら とってもこいよ
向こうのお山の 椿の花が
咲いたか咲かぬか わしゃ知らぬ コイナ    (お手玉歌)

大波 小波
風吹いて山
一つ 二つ 三つ 四つ 五つ 六つ
七日で通ふ                  (縄跳び歌)

 明治11(1878)年、江別兵村入地の小田伊太郎の子女タミは、郷里・盛岡から持ち込んだヒナ人形を飾ることを許されなかったのです。例外は、盆踊りでした。兵員と家族が練兵場に集まり、灯のない広場で肩を寄せ、各々が郷里の盆歌を唄い、そして闇の中で密かに涙しました。



註 :江別市総務部「新江別市史」160-161頁.
写真:篠津の丸太校舎造兵屋
 同上書159頁掲載写真図3-15を複写・掲載いたしております。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする