日露戦争が勃発、屯田兵(後備兵)が召集された直後の明治37(1904)年9月8日、「屯田兵条例」は廃止されました。
つまり、制度としての屯田兵は存在しなくなったのです。
条例廃止の理由は、北海道全域に適用が猶予されていた徴兵令が全面施行となったからです。
それと前後して、日清戦争時に屯田兵を主体に編成された臨時第7師団が、戦後の軍拡路線のなか正式に第7師団として設置(明治29年5月)されたためです。
また、屯田兵以外の移民の増加とともに、さまざまな形で実質的な用地の譲渡が進んだからです。
さらには、35年の北海道2級町村制施工に伴い、兵村独自の自治機関との整合性に問題があったとの指摘もあります。
やはり、最大の要因は、北門の鎖鑰(さやく)としての屯田兵の役割の終焉です。
明治37年9月3日付の内閣法制局の見解は明解です。
すなわち、「第7師団ノ完成ニ依リ 爾後北海道ニ屯田兵ナル特種兵ヲ存置スルノ必要ナキ」と断言したのです。
のみならず「性質ノ異ナル屯田兵ヲ 一般義務兵役者ト共ニ戦役ニ従事セシムルハ、軍事上不便尠カラス」と、誇高き屯田兵の神経を逆なでました。
しかし、召集された屯田兵中、17年までの入地者は、本来ならば37年3月31日で後備役満期隣、補充兵役でした。にも関わらず、お国の一大事に召集され、挙句に戦死などした者にとって愉快ならざる見解であることは確かでしょう。
さらに、兵即農の農(開拓移民)の方面においても、20年代後半以降、一般移民の急激な増加があり、この面での屯田兵の存在は相対的に軽くなりつつありました。
明治8年の琴似屯田の入地から数えて約30年間、この「屯田兵条例」の廃止により、形の上からは屯田兵も兵村も舞台の上から消えたことになります。
江別も、篠津も、野幌の兵村もしかりです。
註 :江別市総務部「新江別市市」154-155頁.
写真:十二戸屯田のアメリカ式兵屋
同上書149頁掲載写真3-10「十二戸屯田のアメリカ式兵屋」を複写・掲載いたしております。