明治21年屯田兵本部は、屯田兵屋や学校維持費にあてるため今日でいう宅地造成に着手しました。
現在の江別駅前の条丁目のうち、第一中隊(江別兵村)付番外地1万924坪の払い下げを受け、これを共用地として約80戸分(1戸=5間×15間、75坪)を区画し、月52銭5厘となりました。
貸した相手は、主に商人でした。しかし、彼らは借地であるため、どうしても腰が定まらない。いわば、ここを墳墓の地として骨を埋める決心がつきませんでした。
「現今戸口は、本籍429戸2,307人(内男1,255人、女1,052人)寄留8部より1万坪を4千500円で譲り受け、区画のうえ競売に付することになりました。
理由は、借地ではなく、自分お土地であればこそ地域発展の見通しもつこうというものでした。
宅地競売広告(明治24年8月28日付北海道毎日新聞)によると、売却宅地は34戸、1戸の面積は75坪以上100坪以内で、希望者は9月4日まで江別村根本方へ入札しました。入札は、午前中までで、当日正午から開札し、ただちに売買契約を行うものでした。
なお、広告を出したのは、江別市街地世話人となっています。
世話人とは、当時の江別村総代人である大河原文蔵、井口善九郎、あるいはエ越後屋の柳町久造、それに入札先の根本(22年の総代人根本徳蔵)などです。
これら有力者が中心となって計画的な街区建設の端緒がひらかれました。
(参考)
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註:江別市総務部「新江別市史」187-189頁.
写真:現在の江別駅
現在の江別駅前の条丁目のうち、第一中隊(江別兵村)付番外地1万924坪の払い下げを受け、これを共用地として約80戸分(1戸=5間×15間、75坪)を区画し、月52銭5厘となりました。
貸した相手は、主に商人でした。しかし、彼らは借地であるため、どうしても腰が定まらない。いわば、ここを墳墓の地として骨を埋める決心がつきませんでした。
「現今戸口は、本籍429戸2,307人(内男1,255人、女1,052人)寄留8部より1万坪を4千500円で譲り受け、区画のうえ競売に付することになりました。
理由は、借地ではなく、自分お土地であればこそ地域発展の見通しもつこうというものでした。
宅地競売広告(明治24年8月28日付北海道毎日新聞)によると、売却宅地は34戸、1戸の面積は75坪以上100坪以内で、希望者は9月4日まで江別村根本方へ入札しました。入札は、午前中までで、当日正午から開札し、ただちに売買契約を行うものでした。
なお、広告を出したのは、江別市街地世話人となっています。
世話人とは、当時の江別村総代人である大河原文蔵、井口善九郎、あるいはエ越後屋の柳町久造、それに入札先の根本(22年の総代人根本徳蔵)などです。
これら有力者が中心となって計画的な街区建設の端緒がひらかれました。
(参考)
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写真:現在の江別駅