江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

夕張鉄道接続駅ー野幌駅

2009年06月30日 | 歴史・文化
 江別市街の生成と発展は、鉄道と石狩川舟運の結節点にありました。

 江別市街は、石狩川本・支流沿岸農村の商業都市的な色合の濃い街として発展しました。これは、明治15(1882)年開通という日本における最初期の幌内鉄道の開通であり、江別駅の開設にありました。しかし、その後の道内鉄道網の急速な伸張は、いつまでも江別市街を近郊農村の商業都市的な位置に安住させるものではありませんでした。

 大正15(1926)年、北海道鉄道株式会社の沼ノ端ー苗穂間が開通しました。次いで、昭和5(1930)年、夕張鉄道株式会社の栗山ー野幌間が開通、同9(1934)年には国鉄札幌ー沼田千の一部が開通しました。
 これらが招来したもの一つとして、千歳(ちとせ)、恵庭(えにわ)、長沼、南幌(なんぽろ)、当別(とうべつ)、月形(つきかた)方面の物と人の流れが、物流の回路が、徐々に江別から遠ざかり、直接札幌へと結びついていきました。

 もともと夕張鉄道の敷設は、江別商業界の熱望でした。昭和元年12月、江別町鉄道期成同盟会(岩田外喜男会長)は、吉原町長と連署で鉄道大臣宛請願書を提出しました。当時の夕張鉄道は、夕張ー栗山間までで、そこから札幌方面に向かうには室蘭本線で岩見沢を経由しなければなりませんでした。これを栗山から一直線江別駅に結んでほしいというのが、請願書の骨子でした。それが、退潮気味の江別商業界を回生する妙案であるとの熱い願いでした。

 この請願は叶えられず、夕張鉄道の栗山からの延長の接続駅は、江別駅ではなく野幌駅となりました。夕張鉄道側は、その理由を泥炭地層の分布状況からの結果であると表明しました。

 昭和9年の札沼線の一部開通は、従来、石狩川舟運と馬搬により江別と結ばれていた月形、当別方面の農産物やその他産物などの大半が、一気に鉄路で札幌へと搬出されることを意味しました。
 「当別町ノウクル打撃マタ看過スベカラサルモノアリ 更ニ町民ノ奮起ヲ望ム次第ナリ」(「江別町事務概況」昭和9年)。
 まさに、江別商業界の危機でした。
 それは、町政が目の前に突き付けられた課題となりました。

追悼 
 江別創造舎メンバーであり、江別の顔づくり事業等真摯にご活動なさっていらっしゃった方の一周忌です。
 江別カルタ制作作業は進んでいるのかい?
 野幌駅高架下工事はどんな具合だい?
 こんなお声が聞こえてきそうです。
 昨年度の江別図案化ポスター制作に継いで、現在カルタ制作を進めております。
どうぞ、私たちを見守っていてください。

註:江別市総務部「新江別市史」416-418頁.
写真:鉄道高架(野幌駅付近)完成予想模型(江別市役所展示模型撮影)
   ★JR函館本線(野幌駅付近)連続立体交差事業
コメント
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