江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

樺太漁業

2009年06月19日 | 歴史・文化
 樺太における日本人漁業は、徳川時代新潟・富山・北海道などから季節的出稼の形態である程度発達しましたが、開拓使の時代においては、旧請負人の伊達林右衛門・栖原小右衛門は依然楠渓部内と西富内部内における良好な漁場において営業し、両家以外の漁業者は、主に静河地方に出漁し、明治3年3月、栄浜・東白漘・西白漘・鵜城の四部内は、アイヌ救済のため官費漁場を開き、山田佐兵衛ほか1名に取り締りを命じました。

 漁獲物は、鰊・鱒を主とし、鮭・鰯・昆布などがこれに次ぎ、平均年額3万2千、3千石を保持していました。
しかるに、領土交換にあたって、樺太の漁場をことごとくみな放棄したのでした。当局の考えでは、従来の経験よりして日本・ロシア両国民が相接触すれば、粉擾が絶えないであろうとし、わが漁業者はこの際すべて引き揚げさせる方針を取り、漁場を放棄させていちいち念書を取り、不在者は出漁の意思なきものとして処分したので、条約付録第一条によって在住の手続きをし、漁業の権利・免税の特典などを有するものは一人もいませんでした。

 当時、日本人の漁場は、楠渓部内に六ヶ所、小実部内に1ヶ所、東富内部内4ヶ所、栄浜部内二ヶ所、静河部内12ヶ所、にし富内部内13ヶ所、白漘部内2ヶ所、合計41ヶ所を数え、大部分は設備も完備していました。そして、政府所属の庁舎などには代償金をロシア政府から出させたにも関わらず、これら漁場の建物などについてはロシア政府は使用の途なしとしていっさい弁償せず、そのため伊達・楠原のごときは損害50万円以上にも及んだといわれています。しかも、伊達・楠原は官意を遵奉して出漁を断念しましたが、その他の小漁業者達は、同島の漁獲の豊富なのをみて断念することができず、同年10月函館の漁業者木田長右衛門(旧漁業地タライカ)、佐藤和道衛門(旧漁業地シツカ)の二人が出漁の願書を提出しました。開拓使は、万一の場合を恐れ、これをさとして願書を却下しました。

 その後ますます出願者が多くなったため、政府は9年3月、旧漁場において引き続き営業することを認めるに至りました。それは太政官の布告をもって発布され、出漁者は海外渡航の形式をとることとしました。

 樺太出漁に対し、漁業者は同年「薩哈嗹出漁共立漁業会」を組織し、互いに協和して漁場を侵さず、利益を上げることとしました。ロシアでもこの協約面に従い、初めは寛大にこれを扱い、課税を免ずるなどの好意を示しましたが、次第にその態度を変え、また漁業区域に対しても制限を加えて、西海岸の漁場はいっさい許可せぬようになりました。

註:北海道「新北海道史第三巻通説二」539-541頁.
写真:「高島漁場鰊漁業の図」栗田鉄馬筆<北海道大学蔵>
  同上書536頁挿絵複写掲載いたしております。
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