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デューク・アドリブ帖

超絶変態ジャズマニア『デューク・M』の独断と偏見と毒舌のアドリブ帖です。縦横無尽、天衣無縫、支離滅裂な展開です。

スタンダードを演奏するなら歌詞を覚えろとロイ・ハーグローヴは言った

2023-12-10 08:27:23 | Weblog
 2018年11月にロイ・ハーグローブが亡くなった時、地元のジャズ仲間に訃報記事を書かないのかと聞かれた。何と答えたのか忘れたがショックが大きくて文章にならなかったのを覚えている。67年の「Sorcerer」からリアルタイムで聴いているマイルスや、二度生で観たハバードの死とは違う悲しみだ。デビュー時から全作品聴いているし、生にも接している。もしジャズ史上最高傑作「Kind of Blue」を超えるものを作るならロイしかいないとも思った。

 あれから5年になる。ロイ本人と仲間たちのインタビューで構成された映画「ロイ・ハーグローヴ 人生最期の音楽の旅」が公開された。小学生の時から注目された稀代のトランペッターを聴いたのは1989年にリリースされた初リーダー作「Diamond In The Rough」だ。この時20歳。天才と騒がれながらも二十過ぎれば只の人と言われるがロイは本物だ。ガレスピーのメリハリ、マイルスの独創性、ブラウニーの歌心、モーガンの閃き、ハバードの艶、更にサッチモのユーモア、ドン・チェリーのアヴァンギャルドさまでをも兼ね備えている。自身のアルバム「Furthermore」でロイと共演したラルフ・ムーアは、17歳の時に45歳の音を出していたと語った。

 印象に残ったシーンを記しておこう。マネージャーと口論の場面はプレスリーとパーカー大佐の関係を思わせる。芸術とビジネス、常に付いて回る問題だ。大好きなアイスクリームを頬張り、ステージにも履くエアジョーダンを選ぶ目の輝き、そんなオフの姿に引き込まれる。病を押してステージに立つ姿の凛々しいこと。思わず拍手だ。若手の指導にも熱心だったロイは、スタンダードを演奏するときは歌詞を覚えろと教える。そう、これだ。テクニックを磨いて上手にメロディーを弾いただけでは音楽にならない。歌詞を吹いてこそ歌心あふれる名演が生まれる。この話だけでロイのスタンダードを聴きたくなるだろう。

 映画は2018年夏のヨーロッパツアーに密着したもので、取材陣はこれが最期とは思わなかっただろうが、ロイ本人は死を予感していたのかも知れない。音楽は勿論、家族、病気、人生、その全てを語った。ラストでホテルの窓際に寄りかかり、「It Could Happen to You」を歌詞をかみしめるように歌う。そして「Say It」を吹く。49歳の音はあまりに美しい。エンドロールが終わっても涙が止まらなかった。 

ジョー・パスは敬老パスを持っているか

2023-11-26 08:30:40 | Weblog
 ここ札幌市では70歳以上の市民を対象に市営地下鉄やバスで利用できる敬老パスを発行している。年間、最大1万7千円の自己負担で7万円分の優遇が受けられる仕組みだ。ジャズを聴きに頻繁に出かける小生にはとてもありがたい。それを市の負担増からいきなり2万円に引き下げるという。高齢化に伴い事業費が増加したことはわからぬでもないが、大方の利用者はこの発表に怒っているだろう。

 怒りを抑えるには静かで上質な演奏は勿論のこと笑顔のジャケットがいい。ジョー・パスの「Virtuoso 2」を見るだけでこちらも笑みがこぼれる。今回もいい演奏が出来たと満足そうだ。風貌からは敬老パスを持って市電に乗っても違和感がないが、1976年録音時、47歳である。同じギタリストのジム・ホールが62年に2歳年上のアート・ファーマーとグループを組んでハーフノートに出演した時、ファーマーはホールに敬語を使ったという。「頭見て 敬語使うな 年下だ」(毛髪川柳より)と思ったに違いないが、頭髪だけで年齢を判断してはいけない。因みにホールはこの時32歳であった。

 「Virtuoso」シリーズはどれを取り出してもギター一本でここまで表現できるのかと驚嘆する。「2」のオープニングはコルトレーンの「Giant Steps」だ。難曲を軽々弾くのだが、これ見よがしではない。「Misty」は作者のガーナーが見たであろう景色を思わせる。「Joy Spring」は音色の美しさが際立つ。ブラウニーの歌心を更にふくらました印象だ。そしてラストはギタリストなら必ず取り上げる「Limehouse Blues」で、ジャンゴ・ラインハルトへの敬愛が込められている。オーケストラかと思わせるほど音が膨らみ、絃が弾けてスケールの大きなブルースに仕上がっている。

 2018年の拙稿「札幌ドームが廃墟になる日」で、日本ハムファイターズが出たあとたちまち赤字になり、その付けは札幌市民に回ってくると記したが早速だ。それも高齢者にである。「多年にわたり社会の発展に寄与してきた高齢者を敬愛するとともに、外出を支援し、明るく豊かな老後の生活の充実を図るため、高齢者に対し、敬老優待乗車証を交付する」という『札幌市敬老優待乗車証交付規則』はどうした。

ジャズ界の魔女、カーラ・ブレイ、風に乗って丘の彼方に

2023-10-29 08:31:28 | Weblog
 1950年代半ば、戦場カメラマンのユージン・スミスが住むアパートで、気鋭のミュージシャンが連夜セッションしていた。その様子を捉えたドキュメンタリー映画「ジャズ・ロフト」に、10月17日に亡くなったカーラ・ブレイが出てくる。グレイト・アメリカン・ミュージック・ホールのライブ盤のジャケット写真と同じ派手な衣装にマントヒヒの髪型だ。デビュー当時から小生はその出で立ちと楽曲から魔女と呼んでいるのだが、話し方といい、仕種といいイメージ通りだった。

 カーラを知ったのはピアニストではなく、1965年のアート・ファーマー「Sing Me Softly Of The Blues」の作曲者としてだ。ファーマーがイメージをふくらましながら吹く叙情的なテーマが美しい。そして68年のゲーリー・バートン「A Genuine Tong Funeral」、70年のチャーリー・ヘイデン「Liberation Music Orchestra」に提供した楽曲は一風変わっていたもののジャズのエッセンスが弾けるほど詰まっている。映画で「ようやくジャズが聴ける仕事に就いたのはバードランドのタバコ売りだった」とインタビューに答えていたが、ここで聴いた数多くのライブから学び、新しいジャズのスタイルを模索し、作曲法を磨いたのだろう。

 強烈だったのは71年のJCOA「Escalator Over The Hill」だ。詩人のポール・ヘインズをはじめ夫のマイケル・マントラー、 ドン・チェリー、ガトー・バルビエリ、ラズウェル・ラッド、ジョン・マクラフリン、チャーリー・ヘイデン、ジャック・ブルース、ポール・モチアン、シーラ・ジョーダン等々、当時の精鋭が並んでいる。集団即興演奏の頂点は69年のバーデンバーデン・フリー・ジャズ・オーケストラによる「Gittin’ to Know Y’All」と思っていたが、それとは違う形のフリージャズの極みをみたような気がした。数多くの素晴らしいアルバムをリリースしたカーラだが、多くの物議を醸し影響力が強いのはこの作品といえる。

 カーラの熱心なファンから魔女呼ばわりして無礼者と叱られそうだが、1964年の東京オリンピックで金メダルに輝いた女子バレーボール日本代表チーム「東洋の魔女」、少女の成長を描いた「魔女の宅急便」、映画「西の魔女が死んだ」で初主演ながら名演技で魅了したシャーリー・マクレーンの娘サチ・パーカー等、「魔女」は最上級の形容詞である。ジャズ界の魔女、カーラ・ブレイ、享年87歳。合掌。

リチャード・デイヴィスと目が合った。彼はニヤリと笑った。そして絃が大きく揺れた。

2023-10-08 08:27:34 | Weblog
 9月6日に亡くなったリチャード・デイヴィスを1992年に僅か1メートル前で聴いている。あの強靭なベーシストが目の前にいるのだ。中村達也のバンドでマービン・ピーターソンとジョン・ヒックスが加わっていた。椅子に座ったままのプレイだったがフロントを揺さぶるリズムと、歌心溢れるソロは、体型と表情こそ変わったものの「Heavy Sounds」のままだ。

 「Kind of Blue」や「Cool Struttin'」、「Groovy」等の名盤で、最初に覚えたベース奏者はポール・チェンバースだった。そしてジャズの深いところに一歩聴き進む。そこでエリック・ドルフィーにブッカー・アーヴィン、ボビー・ハッチャーソン、アンドリュー・ヒル・・・個性際立ったミュージシャンと渡り合った稀代のジャズマンに出会う。チェンバースも魅力あるラインを刻むが、「Out to Lunch」や「The Song Book」、「Dialogue」、「Point of Departure」はデイヴィスの存在がなければ後世まで聴き継がれるアルバムではなかったかも知れない。

 3,000作以上の録音がある多忙な音楽家の初レコーディングは、映画「グリーンブック」で話題になったドン・シャーリーとのデュオ「Tonal Expressions」で、「The Man I Love」や「Love Is Here To Stay」のスタンダードを弾いている。そしてサラ・ヴォーンのバンドで5年間修業を積む。一癖も二癖もある;ジャズシンガーである。バックで坦々とリズムを刻んでいるだけでは「Swingin’ Easy」や「After Hours At The London House」、「No Count Sarah」というマーキュリー時代の名作にクレジットされない。この時代に卓越した技術を身に付けたのだろう。

 件のライブはスタンダード中心の選曲だった。聴き慣れたご機嫌なフレーズに思わず唸る。目が合った。彼はニヤリと笑い、絃が大きく揺れた。拍手のなか小生の「YEAH!」が大きく響く。米ジャズ誌「Downbeat」国際批評家投票のベース部門で、1967年から74年まで8年連続トップに選ばれた記録はこの先も破られない。享年93歳。合掌。

エイプリル・スティーブンス、4月に静かに眠る

2023-09-24 08:25:09 | Weblog
 中古レコード店のバーゲン箱にニノ・テンポのCD「Nino」があった。たまに掘り出し物がある。「'round Midnight」や「Stella By Starlight」といったスタンダードが入っている。ニノは前稿で触れたレッキング・クルー出身でジャズ畑のテナー奏者ではないが、MJQ結成40周年記念盤「& Friends」のゲストに呼ばれ「Darn That Dream」を夢見心地で吹いていた。

 90年代の録音と思われる Atlantic Jazz 盤はメンバーの豪華さに驚く。ピート・ジョリーにマイク・ラング、ジョン・ピサノ、テリ・リン・キャリントン・・・交友の広さからキャリアを改めて調べてみると1963年に、「Deep Purple」という曲でビルボード1位を獲得している。「夢のディープ・パープル」という邦題がついているので、日本でも流行ったのだろうか。60年代のポップスも多少は聴いているものの残念ながら記憶にない。何と姉のエイプリル・スティーブンスとデュオという。ジャケ買いした「Teach Me Tiger」のあの妖艶なシンガーがニノの姉とは知らなかった。

 「Nino」に数曲の自作ナンバーが収められていてスタン・ゲッツを甘くしたような音色で悠々と吹いている。姉のアルバムのタイトル曲もニノの作品だ。更にメイナード・ファーガソンがビッグバンドを組む前のコンボ作品「Dimensions」や、75年にジョン・レノンがオールディーズをカバーした「Rock 'n' Roll」、AORのカリスマであるケニー・ランキンの「愛の序奏」に参加し、クルーのスタジオ要員ではなくテナー奏者としてクレジットされている。曲を書き、歌い、テナーを吹き、時にはキーボードも弾く。多才な音楽家だ。

 エイプリルは今年4月17日に亡くなっていた。初耳だ。ジャズ誌の訃報欄はチェックしているが、見落としたのかも知れない。ジャケットを眺めてはうっとりして、聴いてはマリリン・モンローが歌っているのかと錯覚するほどのセクシーさで要らぬ妄想をする。享年は伏せておこう。レコードを買い、壁に飾った時から彼女は歳を取らないのだから・・・

バディ・チルダーズの膨大な録音数

2023-09-03 08:33:17 | Weblog
 先週、馴染みのジャズ喫茶「GROOVY」でリバティ―盤「Buddy Childers Quartet」を聴いた。ジャケットに見覚えがあるものの買ったことさえ忘れていたレコードだ。バディ・チルダーズの傑作というとフォー・ブラザーズのハービー・スチュワードが参加した「Sam Songs」があるが、アーノルド・ロスとツーショットのこの作品も忘れがたい。B面ラストの「Bernie's Tune」はワンホーンの名演だ。

 この機会にチルダーズの足跡を追った。スタン・ケントン楽団で活躍したのは知っていたが、その後トミー・ドーシーをはじめレス・ブラウン、ウディ・ハーマン、チャーリー・バーネット、ダン・テリー、ベニー・カーター、ジョージ・オールド、秋吉敏子とルー・タバキン等々、名立たるビッグバンドに参加している。単発のミルト・ジャクソン「Memphis Jackson」や、クレア・フィッシャー「Thesaurus」、ジーン・アモンズ「Free Again」にも呼ばれているので重厚なアンサンブルに欠かせないファーストコール・トランペッターなのだろう。

 「Wikipedia」によるとシナトラをはじめディーン・マーティン、ナット・キング・コールにエラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、カーメン・マクレイの三大女性シンガー、そしてアニタ・オデイ、ジューン・クリスティ、クリス・コナーのケントンガールズ、更にパティ・ペイジ、ペギー・リー、テレサ・ブリュワー、驚くべきはモンキーズ、キャプテン&テニール、カーペンターズ等のポップシンガーのレコーディングにもクレジットされている。3万5千曲以上の録音に参加したドラマーのハル・ブレインや、米大統領よりも稼いでいたと言われるベーシストのキャロル・ケイというレッキング・クルーのメンバー並みの録音数だ。

 久しく聴いていないアルバムや忘れかけていた名演に耳を傾け、スウィングのエッセンス溢れるジャケットを眺めながら薫り高き珈琲を味わう。至福のひと時である。半世紀以上ジャズに浸っていても、火を吹くアドリブの熱度は聴くたび増すばかりだ。だからジャズはやめられない。ジャズ喫茶の扉を開けると広くて深いジャズの景色が広がっている。そこはあまりにも美しい。

トニー・ベネット、サンフランシスコに眠る

2023-07-30 08:32:39 | Weblog
 ♪ I left my heart in San Francisco high on a hill ...「This is a pen」で始まる昭和中学英語のレベルでも理解できる歌詞と、思わず口ずさみたくなるメロディ。ラジオから流れてきたのはリトル・ミス・ダイナマイトと呼ばれていたブレンダ・リーだ。今はなきテレビの歌謡番組に出演した松尾和子や雪村いづみ、シャボン玉ホリデーに登場したザ・ピーナッツもコーラスから歌っていた。

 7月21日に亡くなったトニー・ベネットを聴いたのはかなり後だったと思う。♪ The loveliness of Paris It seems somehow sadly gray...ゆったりと歌い出すヴァースに引き込まれた。スケールの大きな歌唱、情景が浮かぶ表現力、ヴォリュームを上げたらスピーカーが破れるのではないかとさえ思わせる響き、どれをとっても一流だ。その後、ヴァースから歌うジュリー・ロンドン、カーメン・マクレイ、ブロッサム・ディアリー等々、数多く聴いたが、それぞれに魅力があるものの本家のドラマティックな展開に及ばない。

 ベネットの訃報をきいて取り出したのはビル・エヴァンスとのデュオ盤だ。エヴァンスの歌伴といえばモニカ・ゼタールンドやヘレン・メリルがある。共にシンガーを盛り立てる控え目のピアノだが、こちらは歌伴ではなく対話なのだ。幾度もステージで歌い、弾いたお馴染みのスタンダードを阿吽の呼吸でリレーしている。エヴァンスのドキュメンタリー映画「タイム・リメンバード」で、ベネットは「エヴァンス以上に情感を表現できる者はいない」と語っていたが、それはベネットも同じである。歌詞に情感が入ってこそ曲が輝き、聴衆を引き込むのだ。

 ♪ When I come home to you, San Francisco Your golden sun will shine for me。サンフランシスコの太陽は今も燦々と輝くている。トニー・ベネットの名唱があったからこそ歌い継がれ、永遠に聴くものを虜にするだろう。シナトラがお金を払ってでも聴きたと言い、ビング・クロスビーは最高の歌手と評価した。ビッグバンド相手にマイク無しでも声が通る本物のシンガー、享年96歳。合掌。

単身渡米した翌年、秋吉敏子はニューポート・ジャズフェスのステージに堂々と立った

2023-06-25 08:22:25 | Weblog
 先週21日の新聞に「札幌ドーム増収策苦戦・中規模コンサート0件」の見出しがあった。日本ハムファイターズが北広島市に本拠地を移転したことによる減収対策として、ドーム内を暗幕で仕切り、二分割して2万人以下のコンサートを誘致するという。総事業費10億円と公表されているが、実際はこの数字を上回ったに違いない。またも札幌市民の税金が無駄に使われた。

 二分割といえばヴァーヴのニューポート・ジャズフェスのライブ盤だ。特に1957年は多くの専属プレイヤーが出演したのでここぞとばかりにノーマン・グランツの商魂が露骨に出る。出演者が多いためステージの持ち時間は短いので1枚のレコードは作れない。ならばカップリングだ。全盛期のエラ・フィッツジェラルドと健康を蝕まれつつあるビリー・ホリデイ。ディジー・ガレスピーと組んだメアリー・ルー・ウィリアムスと、カウント・ベイシーをバックにしたジョー・ウィリアムス.。A面はルビー・ブラフとピー・ウィー・ラッセルの共演で、B面はストライド・ピアノの名手ボビー ヘンダーソン・・・

 挙げるときりがないが、やはり一番は我らが秋吉敏子だ。ジーン・チェリコとジェイク・ハナをバックに時には振袖のように艶やかに、時には大和撫子のようにお淑やかに、時にはアメリカ流のジャズの語法で積極的に弾いている。単身渡米した翌年とは思えないほど堂々としているのが嬉しい。日本で何度も演奏したであろう「Lover」で、一気にテンポを上げていくアドリブは何度聴いてもゾクゾクする。B面はこのステージで一躍有名になった盲目のアコーディオン奏者レオン・サッシュの演奏が収められている。因みにイントロでリー・モーガンというベーシストが紹介されているが勿論別人。

 本年度は6件の中規模コンサート開催を目指しているそうだが、恐らく0件だろう。来年度以降もだ。デビューしたてのアーティストに目標や夢を聞いたら、間違いなく武道館やドームを満席にすることだと答える。客席が半分だとミュージシャンは気落ちしてやる気にならないだろう。東京ドームはかつて「ビッグエッグ」の愛称で呼ばれていた。今日日、卵が高いとはいえ半分に割った卵は誰も買わない。

きっとアストラッド・ジルベルトはイパネマの風になったのだろう

2023-06-18 08:38:28 | Weblog
 今月5日に亡くなったアストラッド・ジルベルトの「イパネマの娘」を聴いたのは、ラジオ番組「ミッドナイト・ジャズレポート」だ。55年以上も前になる。番組の提供はポリドール・レコードで、当時発売権を持っていたヴァーヴ・レーベルの新譜が毎週かかった。DJは成瀬麗子さんで、その艶っぽい声に悩殺された。後にアラン・ドロンの吹き替えで有名な野沢那智さんの奥様になる人だ。

 ジョアン・ジルベルトの静かなギターと呟くようなポルトガル語のヴォーカルに続いて、アストラッドが英語詞で歌いだす。クールでアンニュイ、そして甘ったるい声と自然な歌唱に引き込まれた。それまでに聴いてきたコニー・フランシスやブレンダ・リー、ペギー・マーチとは違う。「大人の歌」とはこういうものかと漠然と思ったものだ。そしてスタン・ゲッツの煌めくソロ。ジャズを聴きはじめの耳には刺激が強い。思わず口ずさみたくなるメロディーと魅力的な歌声、起伏に富んだアドリブ、ボサノヴァを代表するナンバーに小生同様、虜になった少年少女は数知れずだろう。

 ビルボード誌1964年のアルバム・チャートで2位に達する大ヒットの「Getz/Gilberto」だが、録音中のトラブルは有名だ。飛び入りで参加したアストラッドにギャラを出すなとゲッツが言う。一方、ジョアンはゲッツがボサ・ノヴァを正しく理解していないとポルトガル語で怒る。言葉が分からないゲッツが捲し立てる。修羅場のスタジオだが、結果的にはアメリカにボサ・ノヴァを広め、アストラッドを有名にした。性格の悪さが取り沙汰されるゲッツだが、62年にチャーリー・バードと組んで大ヒットした「Jazz Samba」の二匹目のどじょうを釣った商才は大したものだ。

 匂いは懐かしい記憶を蘇らせるという。所謂プルースト効果だが、声も同じような利き目があるのではなかろうか。成瀬さんのハスキーな声は残念ながら聞けないが、アストラッドは55年前と同じ声で今でも聴けるのが嬉しい。「イパネマの娘」をかけて少年の頃を想いだすと少しばかり若返ったような気がする。ボサ・ノヴァの女王、アストラッド・ジルベルト。享年83歳。合掌。

ベイシーとヘフティのペッパーミルパフォーマンス

2023-04-02 08:38:50 | Weblog
 北海道日本ハムファイターズの本拠地である新球場「エスコンフィールド北海道」が開業した。2020年に着工した時から当地のメディアで度々報道されていたのでイメージはできていたものの完成すると驚くことばかりだ。今までの球場づくりの概念を超えている。各地の名店が並ぶ飲食スペースにクラフトビール、温泉、サウナ、ホテルまである。これだけ揃っていると試合のない日や、野球に興味がない人も楽しめるだろう。

 数ある野球に因んだジャズアルバムの中から「Basie Plays Hefti」を選んだ。ジャケットをよくご覧になってほしい。ベイシーとヘフティの手元にご注目。ワールド・ベースボール・クラシックで優勝した我らが侍ジャパンのメンバーにヌートバー選手がいる。彼が始めたペッパーミルパフォーマンスをしているではないか。胡椒を挽くようなポーズはセントルイス・カージナルスではお馴染みというからビッグ・バンドの神様とアレンジの才人はこのチームを贔屓にしていたのかもしれない。50年間このジャケットを見てきたが気付かなかった。新発見だ。

 エリントン楽団とビリー・ストレイホーン、ベニー・グッドマン楽団とフレッチャー・ヘンダーソン、スタン・ケントン楽団とピート・ルゴロ、ドン・エリス楽団とハンク・レヴィ等々、名アレンジャーがいた時期に最高の演奏を残している。ベイシー楽団とヘフティ然りである。二人が最初に組んだのは「Atomic Basie」で、「Li'l Darlin'」が収録されているのでホームランアルバムだが、この「ペッパーミルのベイシー」もスリーベース・ヒットの迫力がある。余談になるがこの野球ジャケットはどの地域のジャズ喫茶でもかかるが、「Atomic Basie」は広島県と長崎県の店には置かれていない。

 試合終了後、3万人の観客が一斉に球場を出る。シャトルバスやタクシーを待つ長い行列、駐車場から出られない車、最寄りのJR北広島駅まで延々と続く人波、球団もシュミレーションしていただろうが、恐らくは想定外だ。混雑を避けるため試合途中で帰る人が増えると選手の覇気も失われる。早急な対策が必要だ。勝っても負けてもゲームセットまで全力で応援したい。