紫苑が寝込んだと滝川から連絡が入ったのは病状が少し落ち着いてからだった。
どうしてもキャンセルできない仕事で滝川が出かけるため、もし都合がつけば紫苑の傍に居てやって欲しいという内容だった。
多分…紫苑ひとりでも問題はないだろうけれど、まだ身体がつらいだろうから…と滝川は言っていた。
何ですぐ呼んでくれないのよ…と内心滝川の気の利かなさに腹を立てながらも、取り敢えず…何だかんだ買い込んで輝はマンションへやってきた。
恭介は用意のいい男だから別段必要な物もないだろうけれど…でも…ね。
静まり返った部屋の中に時々紫苑の咳く声が響いた。
キッチンの棚や冷蔵庫に品物を納めた後で、そっと寝室を覗いた。
「紫苑…具合はどう? 」
輝が声をかけると紫苑は顔をそちらに向けた。
「まあまあ…かな。 まだちょっとボーっとしてるけど…。 」
ひどくかすれた声で紫苑は答えた。 あらあら…喉をやられたのね…。
輝は紫苑の額に自分の額をくっつけてみた。少し熱く感じられた。
「まだ熱があるわね。 時季外れの風邪はしぶといらしいから…。
ちゃんとパジャマ換えた? 身体拭いてあげようか…? 」
輝がそう訊くと紫苑は首を横に振った。
「いい…今朝…恭介がやってくれた…。 」
ああ…そうなの…面倒見のいいこと…。
ふとサイドテーブルの上を見ると水やスポーツドリンクなどが用意されていて、紫苑がすぐに飲めるようにしてあった。
まるで奥さんが居るみたいね…至れり尽くせりだわ…。
そう言えば洗濯物はどうしたのかしら…パジャマ換えたんならあるはずよね…。
輝はベッドを離れて風呂場へ行った。
完全自動の洗濯機の中で乾燥の済んだ洗濯物がそのままになっていた。
洗濯までして行ったんだ…ほんとまめな男だわ…。
輝は洗濯物を取り出すと居間へ運んでたたみはじめた。
わけもなくイライラしていた。
輝が居なくても恭介が居れば紫苑には何の不自由もない…しかも恭介はこの部屋に平気で居据われる。
私はここが嫌い…寝泊りなんかできないもの…。
紫苑がこの部屋を出てくれればずっと一緒に暮らせるのに…こういう時だって私が看てあげられるのに…。
輝は大きく溜息をついた。
再び紫苑の傍に戻ると紫苑はベッドの上で起き上がっていた。
ノートパソコンのキーが淀みなくリズミカルな音を立てている…と思ったらすぐに咳き込んで中断した。
「紫苑…熱があるのに…。 」
輝が咎めても、仕事…と言い訳しながら再びキーを打つ。
さすがに長続きはしない。
入力しては休み…また入力しては休み…途中でひどく咳き込んで吐きそうになったりしている。
二時間ほどそんなことを繰り返して、ようよう原稿を仕上げたらしい。
パソコンを閉じるとほっとしたように枕に突っ伏した。
「馬鹿ねぇ…ひどくなったらどうするのよ…。 」
輝は呆れたように言った。
「あと少しってところで具合悪くなって中断したままだったんだ…。
送ったからもう…安心…。 挿絵の方はまだ余裕があるし…。 」
肩で息をしているから熱が上がってきたには違いない。
恭介だったら強引に止めたかしら…仕事なら仕方がないと黙っていたかしら…?
「輝…バニラアイスある…? 」
ぼんやり天井を見つめながら紫苑が訊いた。
あるわよ…ちょっと待ってて…。
ここへ来る時に買ってきたアイスクリームを取りに輝はキッチンへ向かった。
さすがの滝川も紫苑が熱を出した時に食べたくなる物までは知らなかったようだ。
少しいい気分だった。
紫苑は枕を背もたれにして億劫そうに起き上がった。
輝がスプーンですくって口に入れてくれようとするのを断って、自分で食べられると言った。
「アイス…輝が買ってきてくれると思ってたんだ…。
輝は僕の好きなものを良く覚えててくれるから…。 」
熱の時のバニラアイス…まるで子供ね…。 こういう時だけは紫苑も甘えん坊さんになるわね。
「だめ…食べられない…。 」
ほんの少し手をつけただけで紫苑はアイスクリームのカップを輝に渡した。
つらそうにそのままベッドに身体を沈めた。
「無理するから…熱が上がっちゃったのよ。 」
掛け布団を掛けなおしてやりながら輝は紫苑を窘めた。
紫苑は何も答えずとろとろと眠り始めた。
よほどひどい風邪を引いたんだわ…。
輝はそっと紫苑の額に触れた。さっきよりもずっと熱くなっていた。
熱と眠けのせいでさすがの紫苑も気持ちが緩んでいたのか、ふと輝の眼に紫苑の過去の情景が浮かんだ。
それは直行を助けた時点よりも後にあったことのようで、眼に浮かぶのはおとなの能力者ばかりだった。
彼等は一様に暗示にかけられており能力者同士で激しく争っている。
紫苑はあちらこちらに出向いて争いを止めに入り、暗示を解いて回っていた。
時には雨の中をうろうろと捜し回り、ようよう目的の能力者に辿りつき、どうにか暗示から解放するようなしんどいこともあった。
なぜ…紫苑がひとりでこんな活動を…?
他家の能力者の争いなど紫苑には関係ないことなのに、わざわざ出向いてまで止めに入っているのはどうしてなのかしら…?
輝は克彦の言葉を思い出していた。周りに面倒なことが在り過ぎる…と。
もう少し紫苑のことを読んでみようと紫苑の手に触れてみたが、それ以上のことは少しも読み取れなかった。
もしかしたら…あの時…直行を助けたのも偶然ではなかったのかもしれない…。
あの日…食事がてらドライブをしようと言い出したのは紫苑だった。
勿論…事件が起こるなどとは予想してはいなかっただろうが、ドライブしながらその実は島田や宮原の多く住む町をパトロールしていたのではないだろうか…。
紫苑のように目立つ男がひとりで夜の町をうろうろしていたら、島田や宮原だけではなく、まったく無関係な人にまで何事かと怪しまれる虞がある。
輝が一緒にいれば恋人とのデートという言い訳ができる。
それじゃあ他の一族の時はどうしていたのかしら…?
あ…スケッチブックと画材…ね。 本職だもの…スケッチしてれば誤魔化せる。
でも…昼間よね…スケッチするなら…。
さっきのは絶対夜だった。
…ってことは事前に何処からか情報が入って目的地へ直行しているんだ。
時間的ロスが少なければ誰かに怪しまれることもぐっと減るわ。
時々情報が間違ってて大変なこともあるようだけれど…。
でもいったい何処から情報が入るのかしら…?
紫苑の寝顔を眺めながら輝はあれこれ考えた。
紫苑の周りで何かが起こっていることは克彦の様子から予想はしていた。
けれども紫苑はいままで他の一族はおろか、自分の属する西沢の内情にさえ関わることのなかった人だ。
それがいきなりあちらこちらで能力者の仲裁人として動いているなんて…到底信じられない。
いったいどうなっているんだろう…?
考えても考えても何も思い当たるものはなかった。
輝には裁きの一族に関する知識がほとんどなかったのだから…。
講義室や学生食堂で顔を合わせても直行は夕紀の裏切りを問い質すこともなく、その件に触れることさえしなかった。
地道に探索し続けたおかげで直行は夕紀が導師と呼んでいる男の居場所をやっと見つけ出した。
夕紀はいつも決まった場所に居るわけではないけれど、週に1~2度必ずそこに訪ねていくことが分かった。
そうした取っ掛かりが掴めれば今更どうのこうの文句をつけるよりも、とにかく夕紀を何とか西沢に会わせて未だ解けていない強力な自己暗示を解いてもらう方が先決だと考えた。
ただ、西沢が裁定人の御使者だということは、たとえ亮が知っていたとしても直行の口からは話せず…かと言って亮を介してでなければ西沢と話をするきっかけも掴めず、どうしたらいいのか途方にくれていた。
溜息混じりに学生会館の方へ歩いていくと、部室の窓から亮が顔を出して、下にいる雨傘に半分隠された状態のノエルとなにやら話しているのが聞こえた。
描けるかどうか分かんないけど…一応今日仕事の日だから先に紫苑さんのところへ行ってるからね…とノエルが言った。
昨日まで微熱があったみたいだから無理かもよ…僕もバイトの前に寄ってはみるけど…亮はそんなふうに答えていた。
ノエルは直行に気付くと小さく傘を持ち上げて、じゃあね…と軽く声をかけて帰って行った。
「西沢さん…病気なの? 」
部室に入った直行は開口一番にそれを訊いた。
そうなんだ…と亮が頷いた。
「これで五日目…ひどい風邪ひいちゃってさ…。 なかなか熱が下がってくんなくって…昨日やっと微熱状態まで回復したんだ。
こんなにしぶとい風邪は生まれて初めてだ…なんて嘆いてたよ。 」
近づけるチャンスだ…と直行は思った。
「お見舞いに行ってもいいかなぁ…。 この前助けてもらったし…。 」
いいんじゃない…と直行の思惑に気付かない亮は素直にそう答えた。
同好会の集会が終わった後で、亮について西沢のマンションへ行くことになった。
夕紀以外の会員がみんな集まった集会は相変わらず騒がしく、馬鹿話が飛んでいたが、それなりにみんな楽しんでいた。
表面上は直行も愉快そうに笑っていたが、これから西沢に会うことを考えると胸の内には不安がつのっていくばかりだった。
亮が鍵を開けると玄関にノエルの靴があった。
ノエルがまだ居るということは西沢に仕事をする気力が出てきたということだ。
亮はちょっと安心した。
直行を案内して寝室の方へ向かった亮は一瞬扉を開けることを躊躇った。
話し声が聞こえるのだが、その話し方は西沢のものでもノエルのものでもない。
滝川が帰ってきているのかとも思ったが、さっき確かに玄関に靴はなかった。
そっと扉を開けてみるとノエルがベッドの前の籐のソファで女性モデルのように悩ましいポーズをとっており、西沢はベッドの上からそれをスケッチしていた。
時折ノエルが思い出したように西沢に何かを語りかける声が、その気配からあの太極と名乗る不思議なエナジーのものであることに亮はようやく気付いた。
西沢さんは…ときどきこうしてあのエナジーと話をしているんだろうか…。
太極はあの二階の端の講義室から…この部屋に対話の場所を移したのだろうか…?
ノエルは指示通りポーズをとっているわけだから、完全に乗り移られているわけではないようだ。
再びノエルの口が何かを語ろうとした時、亮の後から直行が部屋に入った。
気配はかき消すように消えた。
直行はその気配には何も気付いていないようだった。
「お帰り…亮くん…。 おや…直行くんも…一緒か…。 」
西沢が亮と直行に声をかけた。
今度は何の挿絵だよ…ノエルが嫌に色っぽいし…。
「成人女性向け恋愛小説…。 前にも言ったけど僕はこの分野は嫌い…何でこんな仕事ばかり来るかねぇ…相庭の陰謀かぁ…。
ノエルがいなかったら到底一枚も描けねぇな…。
あ…亮くん…寝てるノエルの上に屈み込んでキスのポーズをとって…。 」
またかよ…。 亮は仕方なくノエルの傍へ移動した。
えぇ~何が始まるの…状況が飲み込めず直行はどきどきした。
「どっち向けばいいの? 」
そうだな…設定は…きみは僕ぐらいの齢でノエルは少し年上…なんだそうだ。
憧れの年上のお姉さまが誘惑的なお姿で横たわっていらっしゃる…きみならどうするって話…。
どうするって言われてもなぁ…。 亮はノエルの両の手首をそっと掴んだ。
そのままノエルの顔が西沢から見えるようにキスのポーズをとった。
ナンなんだ~?…直行が硬直した。
「そのまま動かないでね…。 よっしゃ…亮くん…その位置からノエルの耳の下辺りに顔を移動させて…。 ノエル…それらしい顔してね…適当でいいから。 」
それらしい顔って…無理! 僕したことないもん…わかんない。
ノエル…エロ本でいいってば…あれに載ってるような顔しとけ…。
う~ん…やっぱり無理!
亮が悪戯っけを起こしてノエルの首に唇を這わせた。
きゃぁ~何すんだよ…背中にぞぞげ来たぁ…。
滅茶苦茶だ…直行は西沢の顔を見た。
「それ…そのゾクゾクって感じ…で行ってみよう! 」
そんなこんなでスケッチが済むまで直行は三人のふざけているとしか思えない様子を呆然と見ていた。
ナンなんだ…この人は…御使者というからにはもっと真面目な男かと思ってた。
こんなハチャメチャな性格だったなんて…。
直行の西沢に抱いていた神聖な固いイメージが脆くも崩れ去った。
この人…本当に裁きの一族の血を引いているんだろうか…?
こんな人に夕紀のことを託していいんだろうか…?
一抹の不安が直行の胸をよぎった。
次回へ
どうしてもキャンセルできない仕事で滝川が出かけるため、もし都合がつけば紫苑の傍に居てやって欲しいという内容だった。
多分…紫苑ひとりでも問題はないだろうけれど、まだ身体がつらいだろうから…と滝川は言っていた。
何ですぐ呼んでくれないのよ…と内心滝川の気の利かなさに腹を立てながらも、取り敢えず…何だかんだ買い込んで輝はマンションへやってきた。
恭介は用意のいい男だから別段必要な物もないだろうけれど…でも…ね。
静まり返った部屋の中に時々紫苑の咳く声が響いた。
キッチンの棚や冷蔵庫に品物を納めた後で、そっと寝室を覗いた。
「紫苑…具合はどう? 」
輝が声をかけると紫苑は顔をそちらに向けた。
「まあまあ…かな。 まだちょっとボーっとしてるけど…。 」
ひどくかすれた声で紫苑は答えた。 あらあら…喉をやられたのね…。
輝は紫苑の額に自分の額をくっつけてみた。少し熱く感じられた。
「まだ熱があるわね。 時季外れの風邪はしぶといらしいから…。
ちゃんとパジャマ換えた? 身体拭いてあげようか…? 」
輝がそう訊くと紫苑は首を横に振った。
「いい…今朝…恭介がやってくれた…。 」
ああ…そうなの…面倒見のいいこと…。
ふとサイドテーブルの上を見ると水やスポーツドリンクなどが用意されていて、紫苑がすぐに飲めるようにしてあった。
まるで奥さんが居るみたいね…至れり尽くせりだわ…。
そう言えば洗濯物はどうしたのかしら…パジャマ換えたんならあるはずよね…。
輝はベッドを離れて風呂場へ行った。
完全自動の洗濯機の中で乾燥の済んだ洗濯物がそのままになっていた。
洗濯までして行ったんだ…ほんとまめな男だわ…。
輝は洗濯物を取り出すと居間へ運んでたたみはじめた。
わけもなくイライラしていた。
輝が居なくても恭介が居れば紫苑には何の不自由もない…しかも恭介はこの部屋に平気で居据われる。
私はここが嫌い…寝泊りなんかできないもの…。
紫苑がこの部屋を出てくれればずっと一緒に暮らせるのに…こういう時だって私が看てあげられるのに…。
輝は大きく溜息をついた。
再び紫苑の傍に戻ると紫苑はベッドの上で起き上がっていた。
ノートパソコンのキーが淀みなくリズミカルな音を立てている…と思ったらすぐに咳き込んで中断した。
「紫苑…熱があるのに…。 」
輝が咎めても、仕事…と言い訳しながら再びキーを打つ。
さすがに長続きはしない。
入力しては休み…また入力しては休み…途中でひどく咳き込んで吐きそうになったりしている。
二時間ほどそんなことを繰り返して、ようよう原稿を仕上げたらしい。
パソコンを閉じるとほっとしたように枕に突っ伏した。
「馬鹿ねぇ…ひどくなったらどうするのよ…。 」
輝は呆れたように言った。
「あと少しってところで具合悪くなって中断したままだったんだ…。
送ったからもう…安心…。 挿絵の方はまだ余裕があるし…。 」
肩で息をしているから熱が上がってきたには違いない。
恭介だったら強引に止めたかしら…仕事なら仕方がないと黙っていたかしら…?
「輝…バニラアイスある…? 」
ぼんやり天井を見つめながら紫苑が訊いた。
あるわよ…ちょっと待ってて…。
ここへ来る時に買ってきたアイスクリームを取りに輝はキッチンへ向かった。
さすがの滝川も紫苑が熱を出した時に食べたくなる物までは知らなかったようだ。
少しいい気分だった。
紫苑は枕を背もたれにして億劫そうに起き上がった。
輝がスプーンですくって口に入れてくれようとするのを断って、自分で食べられると言った。
「アイス…輝が買ってきてくれると思ってたんだ…。
輝は僕の好きなものを良く覚えててくれるから…。 」
熱の時のバニラアイス…まるで子供ね…。 こういう時だけは紫苑も甘えん坊さんになるわね。
「だめ…食べられない…。 」
ほんの少し手をつけただけで紫苑はアイスクリームのカップを輝に渡した。
つらそうにそのままベッドに身体を沈めた。
「無理するから…熱が上がっちゃったのよ。 」
掛け布団を掛けなおしてやりながら輝は紫苑を窘めた。
紫苑は何も答えずとろとろと眠り始めた。
よほどひどい風邪を引いたんだわ…。
輝はそっと紫苑の額に触れた。さっきよりもずっと熱くなっていた。
熱と眠けのせいでさすがの紫苑も気持ちが緩んでいたのか、ふと輝の眼に紫苑の過去の情景が浮かんだ。
それは直行を助けた時点よりも後にあったことのようで、眼に浮かぶのはおとなの能力者ばかりだった。
彼等は一様に暗示にかけられており能力者同士で激しく争っている。
紫苑はあちらこちらに出向いて争いを止めに入り、暗示を解いて回っていた。
時には雨の中をうろうろと捜し回り、ようよう目的の能力者に辿りつき、どうにか暗示から解放するようなしんどいこともあった。
なぜ…紫苑がひとりでこんな活動を…?
他家の能力者の争いなど紫苑には関係ないことなのに、わざわざ出向いてまで止めに入っているのはどうしてなのかしら…?
輝は克彦の言葉を思い出していた。周りに面倒なことが在り過ぎる…と。
もう少し紫苑のことを読んでみようと紫苑の手に触れてみたが、それ以上のことは少しも読み取れなかった。
もしかしたら…あの時…直行を助けたのも偶然ではなかったのかもしれない…。
あの日…食事がてらドライブをしようと言い出したのは紫苑だった。
勿論…事件が起こるなどとは予想してはいなかっただろうが、ドライブしながらその実は島田や宮原の多く住む町をパトロールしていたのではないだろうか…。
紫苑のように目立つ男がひとりで夜の町をうろうろしていたら、島田や宮原だけではなく、まったく無関係な人にまで何事かと怪しまれる虞がある。
輝が一緒にいれば恋人とのデートという言い訳ができる。
それじゃあ他の一族の時はどうしていたのかしら…?
あ…スケッチブックと画材…ね。 本職だもの…スケッチしてれば誤魔化せる。
でも…昼間よね…スケッチするなら…。
さっきのは絶対夜だった。
…ってことは事前に何処からか情報が入って目的地へ直行しているんだ。
時間的ロスが少なければ誰かに怪しまれることもぐっと減るわ。
時々情報が間違ってて大変なこともあるようだけれど…。
でもいったい何処から情報が入るのかしら…?
紫苑の寝顔を眺めながら輝はあれこれ考えた。
紫苑の周りで何かが起こっていることは克彦の様子から予想はしていた。
けれども紫苑はいままで他の一族はおろか、自分の属する西沢の内情にさえ関わることのなかった人だ。
それがいきなりあちらこちらで能力者の仲裁人として動いているなんて…到底信じられない。
いったいどうなっているんだろう…?
考えても考えても何も思い当たるものはなかった。
輝には裁きの一族に関する知識がほとんどなかったのだから…。
講義室や学生食堂で顔を合わせても直行は夕紀の裏切りを問い質すこともなく、その件に触れることさえしなかった。
地道に探索し続けたおかげで直行は夕紀が導師と呼んでいる男の居場所をやっと見つけ出した。
夕紀はいつも決まった場所に居るわけではないけれど、週に1~2度必ずそこに訪ねていくことが分かった。
そうした取っ掛かりが掴めれば今更どうのこうの文句をつけるよりも、とにかく夕紀を何とか西沢に会わせて未だ解けていない強力な自己暗示を解いてもらう方が先決だと考えた。
ただ、西沢が裁定人の御使者だということは、たとえ亮が知っていたとしても直行の口からは話せず…かと言って亮を介してでなければ西沢と話をするきっかけも掴めず、どうしたらいいのか途方にくれていた。
溜息混じりに学生会館の方へ歩いていくと、部室の窓から亮が顔を出して、下にいる雨傘に半分隠された状態のノエルとなにやら話しているのが聞こえた。
描けるかどうか分かんないけど…一応今日仕事の日だから先に紫苑さんのところへ行ってるからね…とノエルが言った。
昨日まで微熱があったみたいだから無理かもよ…僕もバイトの前に寄ってはみるけど…亮はそんなふうに答えていた。
ノエルは直行に気付くと小さく傘を持ち上げて、じゃあね…と軽く声をかけて帰って行った。
「西沢さん…病気なの? 」
部室に入った直行は開口一番にそれを訊いた。
そうなんだ…と亮が頷いた。
「これで五日目…ひどい風邪ひいちゃってさ…。 なかなか熱が下がってくんなくって…昨日やっと微熱状態まで回復したんだ。
こんなにしぶとい風邪は生まれて初めてだ…なんて嘆いてたよ。 」
近づけるチャンスだ…と直行は思った。
「お見舞いに行ってもいいかなぁ…。 この前助けてもらったし…。 」
いいんじゃない…と直行の思惑に気付かない亮は素直にそう答えた。
同好会の集会が終わった後で、亮について西沢のマンションへ行くことになった。
夕紀以外の会員がみんな集まった集会は相変わらず騒がしく、馬鹿話が飛んでいたが、それなりにみんな楽しんでいた。
表面上は直行も愉快そうに笑っていたが、これから西沢に会うことを考えると胸の内には不安がつのっていくばかりだった。
亮が鍵を開けると玄関にノエルの靴があった。
ノエルがまだ居るということは西沢に仕事をする気力が出てきたということだ。
亮はちょっと安心した。
直行を案内して寝室の方へ向かった亮は一瞬扉を開けることを躊躇った。
話し声が聞こえるのだが、その話し方は西沢のものでもノエルのものでもない。
滝川が帰ってきているのかとも思ったが、さっき確かに玄関に靴はなかった。
そっと扉を開けてみるとノエルがベッドの前の籐のソファで女性モデルのように悩ましいポーズをとっており、西沢はベッドの上からそれをスケッチしていた。
時折ノエルが思い出したように西沢に何かを語りかける声が、その気配からあの太極と名乗る不思議なエナジーのものであることに亮はようやく気付いた。
西沢さんは…ときどきこうしてあのエナジーと話をしているんだろうか…。
太極はあの二階の端の講義室から…この部屋に対話の場所を移したのだろうか…?
ノエルは指示通りポーズをとっているわけだから、完全に乗り移られているわけではないようだ。
再びノエルの口が何かを語ろうとした時、亮の後から直行が部屋に入った。
気配はかき消すように消えた。
直行はその気配には何も気付いていないようだった。
「お帰り…亮くん…。 おや…直行くんも…一緒か…。 」
西沢が亮と直行に声をかけた。
今度は何の挿絵だよ…ノエルが嫌に色っぽいし…。
「成人女性向け恋愛小説…。 前にも言ったけど僕はこの分野は嫌い…何でこんな仕事ばかり来るかねぇ…相庭の陰謀かぁ…。
ノエルがいなかったら到底一枚も描けねぇな…。
あ…亮くん…寝てるノエルの上に屈み込んでキスのポーズをとって…。 」
またかよ…。 亮は仕方なくノエルの傍へ移動した。
えぇ~何が始まるの…状況が飲み込めず直行はどきどきした。
「どっち向けばいいの? 」
そうだな…設定は…きみは僕ぐらいの齢でノエルは少し年上…なんだそうだ。
憧れの年上のお姉さまが誘惑的なお姿で横たわっていらっしゃる…きみならどうするって話…。
どうするって言われてもなぁ…。 亮はノエルの両の手首をそっと掴んだ。
そのままノエルの顔が西沢から見えるようにキスのポーズをとった。
ナンなんだ~?…直行が硬直した。
「そのまま動かないでね…。 よっしゃ…亮くん…その位置からノエルの耳の下辺りに顔を移動させて…。 ノエル…それらしい顔してね…適当でいいから。 」
それらしい顔って…無理! 僕したことないもん…わかんない。
ノエル…エロ本でいいってば…あれに載ってるような顔しとけ…。
う~ん…やっぱり無理!
亮が悪戯っけを起こしてノエルの首に唇を這わせた。
きゃぁ~何すんだよ…背中にぞぞげ来たぁ…。
滅茶苦茶だ…直行は西沢の顔を見た。
「それ…そのゾクゾクって感じ…で行ってみよう! 」
そんなこんなでスケッチが済むまで直行は三人のふざけているとしか思えない様子を呆然と見ていた。
ナンなんだ…この人は…御使者というからにはもっと真面目な男かと思ってた。
こんなハチャメチャな性格だったなんて…。
直行の西沢に抱いていた神聖な固いイメージが脆くも崩れ去った。
この人…本当に裁きの一族の血を引いているんだろうか…?
こんな人に夕紀のことを託していいんだろうか…?
一抹の不安が直行の胸をよぎった。
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