椿峰のまち

所沢・椿峰ニュータウンでのまちから見えてくるものをお伝えするブログです。

6月20日のまち 旧前田家本邸 その16

2019-07-01 21:46:53 | 歴史あれこれ

何か書き残しているような気がしてぐずぐずしていたのですが・・・・

 

日本近代文学館の太宰治展に来て、この旧前田家本邸の見学をすることになったのだから

もしかしたら太宰治と前田利為はどこかで接点があったのかもしれない、と思いました。

前田利為は情報収集の役割があったことと、一時期、弘前第八師団長であったことがその理由です。

また弘前藩は近衛家と近い関係にあり、近衛家と前田家は親戚関係にあったようです。

 

もし、何らかの接点があったとして、太宰治は作品のどこかに前田利為の何かを埋めこんでいないでしょうか。

1942年頃の作品では「右大臣実朝」があります。

ふと妻美知子が、太宰治が「右大臣実朝」執筆のときに寝ても覚めても「実朝」で頭がいっぱいになったと書いてあったことを思い出し、津島美知子「回想の太宰治」を読み返してみました。

・「右大臣実朝」に太宰は実朝の和歌を片仮名で入れているが、平仮名を片仮名に変えただけでなく、あるいは漢字を片仮名に、平仮名を漢字に直して、諸伝本のどれにもない自己流の表記をしている。その道の専門家の意向を無視しても、「太宰の実朝」を書き表したかったのであろうか、と思うものの「波」を「浪」と、「浪」を「波」とことさら変えて書いているなど、変更のための変更のような感じを受ける。

・「右大臣実朝」に入れた金槐和歌集の和歌の表記について上記のように太宰流に書き改めたことは、どう考えたらよいのか、真意が不可解である。

 

「右大臣実朝」から

  アラ磯ニ浪ノヨルヲ見テヨメル

 大海ノ磯モトドロニヨスル波ワレテクダケテサケテ散ルカモ

これは前田利為の最後に重なるように感じられます。

加えて「右大臣実朝」の中で名高い アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ

の1行も前田利為にふさわしい台詞のようにも思われたりします。

 

 

 


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7 コメント

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Unknown (藤村眞樹子)
2019-07-01 22:10:43
中国をみても社会主義でも特権階級がうまれて、ノーブレスオブリージュなるものはあまりなさそう・・・・・
革命に幻想を抱くよりも、よりよい社会にそれぞれが貢献することが大事なのではと思ったりします。
一流の職人の育成のためには、目利きの華族という存在が必要だった、といえるのではないでしょうか。
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Unknown (藤村眞樹子)
2019-07-13 08:48:04
狭い見聞の中での感想でびくびくして書いていることをお許しくださいますように。
このヨーロッパでノーブレスオブリージュ
(ノブレスオブリージュとも)
はいつごろからのものだったのでしょうか?

ふと織田信長は
ノーブレスオブリージュ的な君主を目ざしたのではなかろうか
と思うんですね。
ヨーロッパの君主のあり方を宣教師から聞いて、なのか日本の情報として宣教師がヨーロッパの君主に影響を与えたのか・・・・・

あ、またホラ話を
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Unknown (藤村眞樹子)
2019-07-13 11:43:38
韓国の上層の方たちは容姿に恵まれているようで、上背もあり顔立ちも整っているように感じられます。
ちょっと冷たい感じがしないでもありません。ついついけっこう差別がありそう、って勘繰ってしまいます。
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Unknown (藤村眞樹子)
2019-07-13 11:50:54
歴史的に大災害が繰り返されたせいか
日本の人たちは無常観といわれるものをもっていたりする点が違うかもしれません。
また、目立つことを控えるということもあったりします。
韓国ドラマはわかりやすいっていうか、それだけに物足りないように私には感じられます。勧善懲悪っぽいというか。
腕力に自信がある人が多い?
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Unknown (藤村眞樹子)
2019-07-14 09:25:14
もしかしたら婆さんが生きがいを求めてブログにはまっている、と見えているのかもしれませんが・・・・・
こうして少々とんがったブログを書いてまちづくりに参加したおかげで、たくさんの方たちと知り合うことができました。また、けっこうどこかでは調査されたりしたような気がします。

その中で高齢の方たちがあれこれ教えてくれたことがあり、もしかしたらそのせいで寿命を縮めるようなことになった?
ということが少なからずありました。

ブログを書く前には気づいていませんでしたが、日本はずっと厳しい立場にあった国だったようです。
それだけにさまざまな知恵というものを持つことができたのではないか、と思います。
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Unknown (藤村眞樹子)
2020-10-28 14:47:51
戦後の日本は、海外の人たちが主導権をもっていて日本を動かしていた?
大手町のビルなどに入ってみたりすると
そういう雰囲気を感じたりします。
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Unknown (藤村眞樹子)
2020-10-28 14:59:42
この前田家、徳川家などから
日本での「革命」は
長期間に少しずつ変わっていった
ようにも見えたりします。
最後は急激な変化であった・・・・

戦争には負けたけれども
国は守った

国内外の多くの犠牲になられた方たちに
日本国民は感謝するとともに
平和を訴える義務があるのではないでしょうか。
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