椿峰のまち

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2019年2月 青森 その8 八甲田山雪中行軍〔4〕

2019-03-09 00:16:46 | 平和を考える

日露戦争を前にして、緊張感にかけた雪中行軍の訓練をしてしまった青森の悲劇とするだけでは、それほど教訓は得られないようにも思います。

八甲田山雪中行軍遭難事件について こちら

ブログでまとめてお伝えするには難しい事件ではありますが、少し違う視点から考えてみたいと思います。

歩兵第5連隊については こちら

西南戦争に出かけて戦死者や戦病死者がいたとのことです。

日清戦争を経て、この第5連隊や第31連隊が属する第8師団は、日露戦争で前線に立つことは予想されたのではないでしょうか。

1902年当時

第8師団 団長 立見尚文 については こちら 

第4旅団 団長 友安治延 については こちら

歩兵第5連隊 隊長 津川謙光 については こちら 

雪中行軍の最終的な責任者とされている第2大隊の山口鋠少佐は、外国語学校フランス語科を経て陸軍士官学校を卒業したとのこと。

また、この雪中行軍の指揮官である神成文吉中尉については こちら

今まで多くの説がありますが、組織の管理能力が低く、リーダーたちが無能であった、という点では一致しているようです。

 

この点とは異なる以下のように考えてみました。

フランス語科を出た山口鋠少佐は、当然のことながら、ナポレオンのモスクワ遠征について詳細に知っているはずです。

師団長をはじめ、上層部は日清戦争に参加した強者ぞろいのようにも見えます。

この第5連隊の上層部は有能であり、このままでは薩長勢に動かされて、ロシア戦で壊滅させられてしまうと考えたのではないでしょうか。

少なくとも装備を整え、兵士のレベルを上げて戦いたい、と思っていたはずです。

また、東北ではロシアと交易があって、できれば戦いたくないという気持ちもあったのではないでしょうか。

 

神成文吉中尉は、陸軍士官学校を出ていない自分が優遇された理由をどこかで知ったのかもしれません。

また、天候次第での出発であったのかもしれません。すなわち天候が急変するときが選ばれた・・・・・

戊辰戦争で分断され、植民地のような状態の東北で、ようやく原敬が政治の舞台に登場していて、1902年に選挙がありました。

岩手の犠牲者が多かったのは偶然でしょうか。

 

生き残って銅像にもなった後藤伍長の手紙が展示されていました。

 指のない手で書いたようですが、整って美しい字に感じられます。いわゆるエリートでない兵士でもこれだけ書けたんですね。

日露戦争は、ロシアの入り口のあたりで辛うじて勝ち、深く入り込むことはなかったようです。

雪中行軍の犠牲のおかげであった、といえないでしょうか。


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1 コメント

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Unknown (藤村眞樹子)
2023-01-03 18:59:28
二重遭難といったものに警察や自衛隊が巻き込まれてしまうことがありませんように。
遭難して警察や自衛隊を巻き込む工作があったりすると・・・・
地震が多発している折、雪崩や土砂災害が
起きそうに思います。
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