九十九里旅行の二日目です。
恒例の朝食前の散歩です。
太平洋の波はさすがに荒い。
一宮海岸は、御宿と並んでサーファーのメッカです。そういえば隣の御宿海岸は「月の沙漠」の歌のモチーフになったところ。
「砂漠」かとおもったら、地元の施設名称にはすべて「沙漠」が使われていました。歌詞では、海岸の砂はみずみずしいことから、「砂漠」ではなく「沙漠」としたそうです。
一宮海岸も沙漠にふさわしい砂山が延々と続きます。
突堤に立つ、港湾標識が絵になります。
残念ながら、この突堤は立ち入り禁止でした。
さて、朝食はバイキングでした。昨日の夜食べ過ぎたので、朝はセーブしました。なんか、めっちゃ質素ですが、品数は他にも沢山ありました。
さて、今日の第一目的地「上総一之宮 玉前神社」へ
裏の駐車場に止めたため、この鳥居はくぐれませんでした。
千葉県一宮町観光協会公式ホームページ より
1200年以上の歴史がある格式高い古社。ご祭神として神武天皇の母君・玉依姫(タマヨリヒメ)命が祭られていることから、女性を守護する神社として知られ、縁結びや安産などにご利益があるとされています。
また、レイライン「御来光の道」(春分の日と秋分の日に、太平洋から登った曙光が貫くライン)の東の起点にあり、風水学的に東京からの「最大の吉方位」に位置するため、よい気があるといわれ、開運や商売繁盛を祈願する参拝者が多いとのこと。
通は、この神社でやるべきこと(「はだしの道」を歩く、「子宝・子授けいちょう」で子宝祈願、「さざれ石」を見る、吉方位の力が込められた御神水をお持ち帰りなど)が決まっているようなのですが、事前に調べていなかったため、とにかく「はだしの道」に挑戦します。
これが難行苦行の連続でしたが、おかげで胃腸の調子が良くなりました。
玉前神社 「はだしの道」の苦行
本殿がどこか認識できなくて、先に「十二社 」( 一宮町内にあった12社を合祀した神社)をお参りしてしまいましたが、本殿を見つけて、もう一度お参りしました。
オタクなら垂涎ものの、可愛い巫女さんがいました。髪を結って巫女の舞をするときの正装のようです。
玉前神社を後に、九十九里有料道路で、終点の片貝へ向かいます。
この道路が、片側一車線なのですが、周りに家などがないために、2車線一方通行の高速道路を走行しているような錯覚に見舞われます。
途中のPAで道を間違えたのか、こちら側の右折専用レーンを逆走してくる車とすれ違って、ヒヤッとしました。路面に方向矢印を表示したり、センターラインにポールを立てるなど、なんとかしないと事故が多いのではないかと思いました。
海の駅九十九里に着きました。ここで、干物を買おうと思います。
九十九里の青い空と海をイメージして造られた「青いポスト」。それ以上の意味はないみたいです。
さて、次は「道の駅 みのりの郷東金」。ここでは野菜を仕入れました。
さて、この旅行の最後の目的地。佐倉市にある、「国立歴史民俗博物館」へ。
でかい!!。展示総件数は約9千件、収蔵資料件数は約22万件。小高い丘、佐倉城趾の一角にあります。
日本列島に人類が暮らし始めた数万年前から
高度経済成長後の1970年代までの日本の歴史と文化についてが展示されています。
政府が1966年(昭和41年)、「明治百年」記念事業の一環として歴史民俗博物館の設置を決定し、1981年(昭和56年)に発足。博物館としての一般公開が2年後の1983年(昭和58年)3月から始まったとのこと。佐倉市にこんな施設があったとは、まったく知りませんでした。
展示は、網羅的で、コンセプトがぼやけていて、興味をそそる展示があまりありませんでした。
群馬がどんなに素晴らしいところかをアッピールしている群馬県立歴史博物館とくらべて、だいぶ品質がおちていると思いました。
やっぱり国がつくると、つい自虐史観に基づいてしまうんですね。
そのなかでも、面白かったものをいくつか。
縄文土器。すごく精工にできていて、弥生文化に後れをとるようなことはないことが分かります。
現在では、
①、稲作は縄文時代とされていた時期にも行われており、また、弥生時代の特徴としていた高床式倉庫や大規模集落、木工技術、布の服が縄文時代から存在していた
②、遺伝子工学などの最新技術から、弥生時代になっての朝鮮半島からの大量の渡来人などによる人種の置き換えは起きていない。
③、古代日本列島における中国文化の文化伝搬の地域差が激しく、人種も完全に入れ替わってはいないこともわかり、弥生時代と縄文時代を明確に分割することが困難となり、開始年代やそもそもの定義について問題があるという結論が出てきている。
など、教科書の嘘がばれてきているようです。
従来、イエネコは経典などの重要書物をネズミの害から守るため、奈良~平安時代に渡来したとされてきたのですが、近年、長崎県壱岐市の遺跡から弥生時代中期頃のイエネコと推定される骨が出土。日本へのネコの移入時期が一気に数百年さかのぼることになったそうです。
「胸叩」は、中世・近世(12世紀 - 19世紀)の存在した民俗芸能。
上半身裸の人物が、自らの手で自らの胸を叩き、騒がしく叫びながら民家等をめぐり歩く、という芸能だそうです。
う~ん。「大阪名物パチパチパンチ」ですね。
さて、今回も頑張ってくれた スバルR1。帰路につきます。