明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



架空のブルースマンが初個展であった。もともと何かを参考に作るのは苦手であり、勝手に作るのが楽しい。写真を始め、その人物の背景まで描けるようになり、作家シリーズ を始める。実在した人物をモチーフにするとなると、上手い嘘を付くにはホントを混ぜるのがコツだが、そのブレンドの妙というものが生まれる。江戸川乱歩いうところの〝現世(うつし世)は夢 夜の夢こそまこと“のうつし世と夜の夢のブレンドの面白さ。これは実在した人物を扱ってこそである。またそれには陰影をなくすことにより、さらに拍車がかかる。 一昨年の40周年展では、寒山と拾得はもとより、仙人や昔過ぎて実体の判らない人物など、架空の人物を多く作り、40周年だから、という訳ではないが、デビューの頃の架空の人物を作る自由を思い出した。 蘭渓道隆が完成間近であるが、随分時間がかかった。それはせいぜい江戸、明治生まれの作家を作るのとは趣がまったく違った。数百年前となれば歴史的に事実だろうと、もはや夜の夢に等しい。今度はその時どちらを向いて坐禅していたか、また袈裟は着けていたか、などこだわり、私ならではの虚実のブレンドを試みることとなる。それに引き換え、自由に創作出来る達磨大師は2日で頭部が出来てしまった。



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制作に資料も必要のない達磨大師は頭部が完成し、明日より坐禅姿の制作に入りたい。衣の衣紋線をいつもより滑らかにしたい気がして、いつもより質感の滑らかな粘土を注文する。 面壁坐禅九年で手足がなくなった達磨大師だが、達磨大師を描く場合、坐禅姿でも、みんな普通に前を向かせている。『慧可断臂図』で、坐禅中の表情を見せるため、雪舟は真横を向かせたが、私は振り向かせた。考えてみると、面壁中の達磨大師を描く場合、我々?のような律儀な試みは、ほとんど成されていないように思える。そう考えると、建長寺に残る、蘭渓道隆が坐禅をしたと伝わる座禅窟で坐禅する蘭渓道隆は、壁に背を向ける臨済宗でも、当時は面壁であったので、後ろ向きでは仕方がない、と断念していたが、古来より、みんな達磨大師に坐禅姿で正面を向かせている。であれば座禅窟にこちらを向いて座する蘭渓道隆を描いてもバチは当たらないだろう。坐禅窟より外の景色を眺めたこともあったはずである。それにしても、数百年、手付かずのモチーフの宝庫である。

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達磨大師は私ならではの物を作る意味が感じられない。それでも禅師を並べてみると、やはりラインナップの中に居ると収まりが良い気がして作り始めた。なので、せめてギョロ目はやめようと思っていたが、目力だってあるだろう、となると普通にギョロ目の達磨大師となってしまった。まぁ想定通りといって良い。常に私の代わりは誰にもさせない、と考えて来たので、私ならでは、である必要がない、とはかつて作る上で考えたことがない。長くやっていると、こんなこともあるらしい。 今これを書いている時NHK特集で永平寺の厳しい修行の様子をやっている。昔観た覚えがあるが、食事のせいでみんな脚気になるといっている。岐阜の製陶工場で一年勤めた時、社内の越前旅行で見学したのを思い出す。そういえばその就職する前に、昔高校の教師をやっていた祖父の教え子が檀家だということで寺の僧侶でもある陶芸家のところに父と行ったことがある。そこで一番弟子を紹介されたが、やはり僧侶で、いずれにしても寺の修行もしなければならない。というのでそれは無理。と即断した。その私が達磨大師を作っている。件の陶芸家は後に人間国宝になっていた。

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昨日、今はなき木場の煮込みの『河本』の常連が5人集まった。女将さんが亡くなり、女将さん原理主義者の常連は出禁にされ、線香をあげることも許されなかった。仲の悪かった義理姉憎しのとんだとばっちり、逆恨みという奴である。その後、躾のなされていない連中が押し寄せ、携帯でも写真を撮りまくっていた。 初めて訪れた時、女将さんはまだ髪が黒々の五十代であった。それから30有余年である。小学生の頃から店を手伝っていた女将さんには、ホッピーの瓶が足りなくなり、インク瓶を流用し、洗浄が足りなかったのか、ブルーのホッピーが出て来た、という荒っぽい時代の話も聞いたことがある。私は小学校の図工の先生に、屋台で始めてご馳走になった酎ハイにそっくりな味で、もっぱら酎ハイ専門であった。女将さんに炭酸水を注いでもらうのは最初の一本だけなのだが、それを知らず、何故だか何十年も全て注いでもらっていた。私ほど女将さんに注いでもらった人間はいないことになる。 女将さん愛用の栓抜きを、ステージに置いて行った山口百恵のマイクロフォンのつもりで所有している。店を解体していると、通りかかった常連に連絡をもらい、職人に頼んでカウンターを一枚もらってタクシーで運んだ。切り分けて有志に分ける、百年前の暖炉の木でギターを作ったブライアン・メイのようにギターにすることも考えたが、ギターにするつもりのホンジュラスマホガニーも手付かずのままである。やはり当初の目的のように、この上で酎ハイが良いのだろう。




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私が長らく恐れたのは死の床で、あれを作ればよかった、これも作れば、と後悔に身をよじることだったが、長い目標を持たず、目の前の物だけに集中することにより、途中挫折の可能性を低める、というグッドアイデアが浮かんだ。実際昨年、膵炎を疑われた時も、目の前のやるべきことは、蘭渓道隆と無学祖元 を完成させることだったので、意外なほど落ち着いていた。これが寒山拾得で行こう、と考えた時点だとしたら、そうはいかなかったろう。 先のことは考えない、とは矛盾するのだが。達磨大師を作り始めた。なんの資料も要らず、好きに作れるのが良い。そもそもの私のデビューは架空のブルースマンだった。そう思うと、最後の制作は、男の様々な種々相を思うまま作れる、という意味で究極のモチーフと思えるのが羅漢である。ただし、ここで肝心なのは、十六羅漢だ十八羅漢、まして五百だなどと頭に数字を付けないことである。この数字が成就目標になり、挫折の元となる。こうすれば途中でパッタリ逝っても、作り残しはせいぜいその一体である。もっとも逝ってしまえば後悔のしようはないけれど。

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蘭渓道隆や無学祖元と並べても違和感を感じない達磨大師にしたい。まずは禅画によくあるギョロ目はやめよう。あれのおかげで定型キャラクターになりがちである。だがしかし、並べても違和感ない達磨大師が出来たとしよう。そうなると今度、浮いてしまうの中国である僧の注文で描かれた怒目憤拳の臨済宗開祖、臨済義玄像。それが日本に伝わり、流布された。その顔が作りたくなって立体化したが、前頭部に向かって盛り上がった頭部その他、創作されたものであることは明らかである。その後まったく別人の義玄坐像を数種見つけた。そのうち元になったであろう座像が京都の大徳寺にある。こうなったら行きがかり上、これを立体化しない訳にはいかなくなる。 こうして、自分のしでかした?いや制作した物によって、道筋に変化が起きる。こうやって常に変化を続けて来た。明日はどっちだ?それで良い。目標とは感じる前に考えろ、だといえなくもない。とかく挫折の元である。

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第3シリーズともいうべきモチーフに転向することになったのは、人間も草木同様自然物、肝心なものはあらかじめ備わっている。と長らく考えて来たが、仏は己の中に在るということに、結びついたのかもしれない。独学我流者であることも大いに関係している気がする。というのも、特に肝心の頭部、顔を作るとき、40数年間、ただひたすら完成を祈る、としかいいようのない方法で作って来た。これは比喩でもなんでもない。なので私が人形の首を作っているところを見た人はいないはずである。実に泥臭く、完成する気がしない。ただ結局は祈りが通じて完成して来た、という経験が後ろ盾になっているだけに過ぎない。創作のことだけを考えると自分と向きあい、面壁修行の如き趣きである。難があるとすれば、制作していない時の修行僧の対局にある、生活態度にあるかもしれない。なので欠点がなるべく出ないよう、制作ばかりしている。 しかしながらこのグウタラしている時にこそ、上からぼたもちのように何かが降ってくるので、達磨大師のイメージもおおよそ。


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一日  


午後のロードショーで『燃えよドラゴン』を最初の方だけ見た。高校時代の私はプロレスとか、ヘビー級ボクシングの重量級が好みだったので、それほど熱中することはなかったが。当時ブルースミュージックに夢中だったので、書店に行ってはブルース関連の情報を探したが、おっ、と思うと大抵下にリーが付いていた。まだ車が反対側を走っていた沖縄に行ったことがあるが、ブルース・リーみたいなヘアスタイルの少年、青年がそこらじゅうにいた。「考えるな感じろ。」は冒頭のカンフーを教えるシーンに出てきた。初代タイガーマスク佐山聡の教え方の印象が強く、とても優しくソフトに見える。ブルース・リーが「殺すぞ!」と恫喝するところを想像して吹いた。冒頭からそれでは違うニュアンスの映画になってしまう。 あまりにも定型化した達磨大師。なかなか始める気が起きない。開祖である達磨大師がいると収まりが良いように思ったので、作ろうと思った。ならば特別な達磨大師を作るというより、誰の間や隣に置いても違和感がない開祖にしようと。

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『VIVANT』を観ていた時、子供の頃観ていた獅子文六の『胡椒息子』の主役、中村光輝みたいな顔してる社員がいるな、歌舞伎役者かな?と思ったら中村猿弥だという。中村光輝は子役から中村歌昇になったのは知っていたが、今は中村又五郎という変わった芸名になっていた。別班の自己紹介の場面はモニターに向かっていてテレビ画面は見ていなかったが、また歌舞伎役者だな、と思ったら中村笑三郎だという。セリフで出自がバレるようでは別班には向いてないだろう。 子供の頃シルエットで誰かを当てるシルエットクイズが得意で茶の間で両親を驚かせていたが、一度頭に入ると十年経とうが電話の「もしもし」で誰だか判る、という自慢する機会がまったくない特技も持つ。 ことほど左様に人の様子にだけは生まれつき敏感であり、おかげで〝人形作家、見てきたような嘘をいい“と、我が渡世には大いに役立っている。おそらく私に犯罪現場を見られた犯人は切ない目に遭うだろう。一度そんなことで役に立ってみたいものである。

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ようやく無学祖元と無学祖元に刀を向ける蒙古兵、蘭渓道隆と雲水姿の一休宗純の仕上げ、臨済義玄を修正している。ラインナップを眺めると、ここに禅の開祖達磨大師がいれば、より収まりが良いように思える。今回の被写体制作の締めとして、出来れば来週より制作を開始したい。『慧可断臂図』では白い布を纏わせたが、今回は赤達磨にしたい。資料は必要ないから、時間はそれほどかからないだろう。 ほとんどの時間を被写体制作に費やし、昨年は背景を一回撮影しただけに終わった。実に面倒、酔狂なことを、と思われているに違いないが、詩を解さず、詩的センスが皆無な私は、外側ににレンズを向けて、比喩的に自分を表現するようなことに爪の先ほどの興味がないので、眉間にレンズを向けて、これ以上ないほど直接的、ストレートなことをしているつもりでいるのであった。



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私の知る蘭渓道隆像3体は、生きている本人に会ったことがない、とするなら私と条件は一緒である。であるなら江戸時代に作られた、まるで別人の像を別にした建長寺の2体は、生前描かれた自画像を参考にしたのは間違いないだろう。だとしたなら、私とは見え方が違うな、と思うのだが、死後まもなく作られたという一体目の真横の顔を見たら、私の作った横顔と似ており、肖像画では表現されていない部分を推理して作った結果が似ていたことに、七百年前の作者にシンパシーのような物を感じた。実に奇妙感慨だったが、私は私の信じたまま作るだけであり、結果が違うことに作った意味がある。同じ物作っても仕方がない。蘭渓道隆は3度の修理で元の色はなく、無学祖元も剥落し真っ黒である。来日前の若く肌の色のある姿を見てみたい。

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蘭渓道隆の肖像画や立体像のうち、生前制作されたのは建長寺の国宝の肖像画で、あとはすべて死後の制作のようである。立体像は、私が知っているのは建長寺の2体と京都西来院の1体の計3体である。本人に会ったことがなければ、私と条件は一緒であろう。建長寺の重文の像は、垂れ目、ほおはこけ、顎が尖っている特徴は共通だが、頭の形が違うし目が大きく骨太でがっしりしている。肖像画は華奢な印象である。2体目は垂れ目だがやはり目が大きく、ふっくらしている。来日後、ふっくらしたことが知られており、肖像画から推察して太らせたなら、納得が出来る。私もそうしたろう。京都西来院の3体目は、江戸時代・延宝4年(1676)の作で、ここまで来ると面影はなく別人である。ただし、国立博物館の調査で、内部に破損した蘭渓道隆の面の部分が収まっていることがわかった。生前の作の可能性もあるらしく、肖像画の特徴が表現されている。 仏像と違い、頂相彫刻は滅多に作られない。下手をすると、仕上げ中の蘭渓道隆は江戸時代以来となるかもしれないが、松尾芭蕉を面識のあった門弟の肖像画以外、まったく無視して作ったように、蘭渓道隆は、生前描かれた肖像画だけを参考に、仕上げ中である。



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友人SとI君の2人との新年会。前回は、たしか寒山と拾得の首を持って行った。『40周年記念「Don’t Think, Feel!寒山拾得展』の時、会場のふげん社に着き、2階で今見て来たという飯沢耕太郎さんに挨拶し、3階に上がると、この2人がいて「今来た人、会場に入るなり「またおかしなことを。」っていってたぞ。」ずいぶんはっきりした一人ごとである。〝感心されるくらいなら呆れられた方がマシ“な私ではあった。 昨年は、あの時の私が予想していなかった方向に走った。今年はその昨年の私の、また想定外の物を作らなければならない。人間変わってこそ。去年と今年か同じでは、ただ一年歳を取っただけで、とても耐えられない。あの頃には一日も戻りたくない、となる。冥土に近付く恐怖に耐える方法はこれしかない。景気やコロナや戦争など外側の事情とは無縁の私の中の問題であり、その誰も見たことがない結果に呆れていただければ幸いである。これが私の渡世というものである。



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蘭渓道隆は、肖像画、彫刻、それぞれ数種類残されている。制作年代はほとんど不明だが、それぞれ数百年は間が開いていそうである。垂れ目、尖った顎など共通の特徴があるにはあるが、ニュアンスがだいぶ違う。国立博物館のレントゲンによる調査結果など見ても、それぞれの工夫が感じられるが、作者が本人と会ったことがない、という意味では私と条件は一緒であろう。一番新しいと思われる江戸時代に作られた像は、もはや共通点がほとんどない他人に見える。 松尾芭蕉を制作した時、間違いなく芭蕉と面識のあった門弟が描いた肖像画だけを参考にしたが、宗時代の中国から携えて来た可能性があり、本人の賛がある。つまり間違いなく本人が目にした肖像画だけを参考に制作した。賛 を書いたということはお墨付きといえるだろう。ようやく頭部の仕上げに入る。雲水姿の一休宗純もそろそろ仕上げに入る。



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元旦  


枕元に未読の資料を扇状にズラリと並べ熱燗。昨年は、私の設計図は小3〜小4の時にすでに描き上がっていた、とつくづく思い知ったが、夏休み冬休みとなると、山のように図書室から本を借りて来たが、大半が人物伝であった。そして今年始めに手にしたのは『名僧列伝』。 しばらくぬくぬくしていて、冷凍の地鶏が届く。暮れにいただいたレンジで焼ける調理器具で楽をする。台所に立ったついでに臨済義玄の坐像を取り出し修正 を加える。陰影をなくす手法になってから、日本画調になりがちだが、必ずしも日本画調を目指した訳ではない。原画にない額に浮き出る血管を生かし、〝怒目憤拳“の表情を、陰影を強調して撮影もしてみたい。千年以上前の人物像を広角でクローズアップなど有りだろう。何をしたって私の被写体は文句をいわない。



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