先日友人の写真スタジオに出かけたおり、小説家で好きな三人は、ときかれ、乱歩、鏡花、谷崎と答えた。私は油断すると小説を読んでいる間中、頭の中に映像が浮かび続ける。よって画として面白くない場面が続く物はあまり好まない。男と女がただ延々としかめ面して話し合われては閉口するのである。その点この三人は、映画化され続けていることから判るように、面白い画にはことかかない。 作る側からいうと、最も危険なのが乱歩である。以前書いたことがあるが、乱歩は魅力的なイメージを創造するわりに、子供っぽいとか整合性云々をいわれる。これをうっかり私だったらこうする、などとやって映画は失敗するわけである。あれは乱歩の文章をもってしか描けない特殊な世界である。特により具体的に描く映画の場合は一見優しそうな乱歩に飛び込んで行って、巴投げをくらって失敗するわけである。投げをくらわないよう乱歩とは適切な距離を保つことが肝腎である。 同じく幼児性をもっていると思われる泉鏡花は『貝の穴に河童の居る事』ではそれが炸裂しているように思われる。毎日付き合っていると、楽しそうに書いているのがよく判るのである。潔癖症だからこそ、というべきか、河童の肺が腐れたようなきたならしい様子も、「汚ねえなァ」などと楽しそうに感じる。私が本作を選んだ理由も、今頃になって判ってきた。
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