明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



挿絵の場合は読者の想像力を邪魔してはならず、肝腎な箇所に効果的に配されるわけであるが、制作中の作品は、挿絵というよりビジュアル本として作品も多く載せることになり、その分、場面をより具体的に描くことになるが、鏡花の狂言じみたセリフなどにより、登場人物は今どのような状態でどうしているか判り難い場合がある。 先日編集者から、元となる岩波版の鏡花小説・戯曲選のコピーが送られてきた。解説は寺田透で、作中の三人が化かされ踊らされる場面に言及し、『こういう集団的神がかり現象は鏡花積年の、問題だった』等々興味深く読んだ。 河童が鎮守の社に、人間へのあだ討ちを願い出る。地面に頭をすりつけ「願いまっしゅ、お願い。お願いー」そこでまず登場するのが、姫神様の後見人たる翁である。禰宜(神官の一種)のいでたちの描写があり、『ー半ば朽ち崩れた欄干の、疑宝珠を背に控えたが。屈むが膝を抱く。』寺田はこのくだりを『という言い方はちょっとまごつかせるが、屈んでいた河童の三郎が、禰宜の膝を、哀訴のしるしに抱いた、と読むべき表現だろう』と書いているが私にはそうは思えない。自己本位な河童であるが、案山子の着衣をはいで着てくるし、飛ぶのが得意なのに、それでは失礼だ、と石段をとぼとぼ登って来た。自己紹介もしていない段階で、いきなりそれはないのではないか。まして昼間、娘の脱いだ足袋の中に隠れていて、河童の粘液が足袋に付着し『あら、気味の悪い、浪がかかったかしら』といわれたのに明らかなように、河童は生臭くベトベトしている。本人も承知しているだろう。よって私はこの場面は、折れていない方の手を地面につき、伏した状態のまま、と考える。 それにしても、寺田透をも“まごつかせる”鏡花作品。手掛けて以来、私がまごつきっぱなしで当然、と安心した。

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