citron voice

詩人・そらしといろのブログ~お仕事のお知らせから二次創作&BL詩歌まで~

【刀剣乱舞×詩】鞘に収めて帰ります【 #刀剣詩 】

2017-03-31 17:04:32 | 二次創作詩=漫画/アニメ/ゲーム×詩
日本号とほぼ同時期に、当本丸にも明石国行がやって来ました。
「なーんもやる気せーへんので。」と自己紹介するほど、やる気のなさを売りにしているキャラクター。刀の来歴としては、「明石国行」と呼ばれるようになった播磨国明石藩主松平家に伝わる以前のことは不明のため、ミステリアスな面もあります。
「明石国行」以前の記録・記憶を隠しているようなキャラクターでもあるのかな、と妄想しました。
タイトルは「鞘に収めて帰ります」です。

………………

鞘に収めて帰ります/そらしといろ

ここに在る影が伸びる方角を眺める君のつむじを眺める目があること。

(古い記憶を錆ごと愛したら楽だろうよ。
落とすことを怠った錆の下で崩れていった記憶の空白を愛していると胸を張って言えばいいじゃないか。
なにかが消されて生まれた物語に言葉はなくて果てることのないすすり泣きは小鳥の囀りではないのに。)

怠らずに落とした錆の下になにもなくても落ち込むことはない。
自らの手で遠い景色を見ようと想ってくれた君が主で良かった。

予めなかった記憶
        (のための物語
ないとされた記憶

その違いを見誤るような君ではないと信じているから過去へ飛ぶんだ。
君たちがほんとうに守りたいものはこの鋼の身体ではなくて刃にもなる言葉たちだから過去へ飛べるんだ。
諸刃とはいえ刃の言葉が言葉を狩る時空へやわい君をひとりで放り出すほど無慈悲な神になりきれなくて過去へ飛ぶんだ君の代わりに君たちの代わりに。

ここに在る君の影が伸びる方角を眺めるこの目が選んだ道を歩むかは君次第だけれど。


ライブ「星座にまつわる夜伽」を聴いて

2017-03-24 19:56:56 | 日記
3月22日、池袋のライブハウス「鈴ん小屋」にて、にしやまひろかずさんの企画「星座にまつわる夜伽」を聴いてきました。
にしやまさんはクラシックギターを奏でながら歌う方です。このブログで拙詩の感想を書いてくださったことで知り合いました。今では、にしやまさんの作曲と、私の詩をコラボさせた歌もいくつかあります。
そんな縁で、にしやまさんが東京でライブを開くお知らせをいただき、聴いて行きました。
出演者は次の4名。

【ライブ「星座にまつわる夜伽」出演者】(敬称略)
にしやまひろかず(おひつじ座)
赤い靴(水瓶座)
アカリノート(スコーピオン)
山田庵巳(天秤座)

出演の順番に感想を。

・にしやまひろかずさん
3回ほどライブを聞きに行ったり、音源を聴いたりしているので、耳なじみのある始まりホッとする。珍しく、アップテンポな曲も歌っていて新鮮でした。
私が詩を書いた「春の挨拶」と「歌枕」を歌ってくださり、歌い慣れた感じがあって嬉しかったです。

・アカリノートさん
鹿児島出身とおっしゃっていて、鹿児島をテーマにした歌を歌われていた。
心に残ったのは、1曲目に歌われた歌(タイトルを失念!すいません)と、ビールの歌です。
力づよさと広さを感じる歌声とギターの音色から、アカリノートさんの故郷の雄大な自然を感じました。

・赤い靴さん
普段は福岡で活躍しているそうで、とにかくパワフルな歌とギターに圧倒される!
今の時代に、それぞれが抱えているモヤモヤを代弁してくれるような歌詞が、ふと、自分の第一詩集と重なる感じがあって、親近感がわきました。昭和歌謡っぽい曲もあれば、今のポップスっぽい曲も。トークも独特の味わいがありました(笑)。

・山田庵巳さん
山田さんの歌を聴くのは二度目。一昨年くらいの夏に、江古田のライブハウスで聴いた以来です。突き抜けるような綺麗な高音の歌声と、巧みなギターテクニックに目が釘付けでした。
山田さんがトークの際に、「人は別れから歌を作るのかな」というようなことをおっしゃっていて、本当にそうだなぁと。語るような歌い方は、一つの演劇を見るような心地です。

こう、言葉が音楽の節に乗ると、途端に口ずさみやすくなるのが、詩を書いているものとしては羨ましいところで。
音楽の節がつくと、言葉は言葉を解放される感覚がある、というのを、このライブを聴いて思いました。言葉が、もっと純粋な音になっていく感じです。
言葉が音にほどけていくことが、歌うことや歌を聴くことの心地よさなのかもしれない。
私が個人的に詩の朗読をするのが難しいと感じるのは、言葉を保ちたいのか、音にしたいのか、迷う部分があるからだと思う。活字で読むときは言葉を保ちたいし、朗読するときは音を重視したい。
そんなことを考えた3月22日の夜でした。

ひとつずつ、ゆっくり考える

2017-03-13 17:48:10 | 日記
3月11日の土曜日に、詩人・川口晴美さんの講演「3.11と詩とサブカル」を聞きに行きました。
3月は、東日本大震災について考える時間が、普段よりも多い気がする。
大きな災害だけではなく原発事故も起きたことや、復興のこと、今後に予想されている災害について考えると、息が詰まるような重さを感じる。
重大な問題・課題は、姿が大きすぎてどこに焦点を合わせたらいいのか分からない。
とにかく全部を見ようとするから、問題・課題の規模に圧倒されてしまって、思わず目を背けたくなる気持ちもあるのが、私の正直な気持ちです。

だけど、川口さんの講演を聞いて、震災という巨大な問題・課題を、詩とサブカルの視点から考えることも可能なのだと、気付かされました。
自分に合った物の見方でなら、(自分だったらどうする?)と、自分自身に引き寄せて考えやすい。また、大きすぎる姿の細部に焦点が定まって、ゆっくり落ち着いて考えられた。
大きな出来事を細分化すれば、詩の視点が、サブカルの視点が、考えるきっかけになる。

以下、講演の内容のメモです。
感想も混ざっているので読みづらいですが、記しておきます。

………………

震災の直後は、誰かに語らずにいられなかった。それと同じくらいに、沈黙もあった。
例えば、萩野なつみさんの詩「未明」は、「現代詩手帖」2011年5月号の投稿欄の作品で、「わたしは詩を欲している」という書き出しのあとに、帰宅難民を思わせる景色が展開する。
河野聡子さんの詩集『Japan Quake Map』(2012年)と、山田亮太さんの詩集『オバマ・グーグル』では、インターネット上で東日本大震災の記録を探し、参照・引用した形で詩を作った。震災当日の、リアルタイムの切実な言葉が断片的に抽出されており、自分が遭遇したかもしれないリアルが感じられる。

大変なことが起こった、という大きすぎる事実は、人々を疲弊させる。
例えば、川口さんが大好きなアニメ「TIGER&BUNNY」は、2011年4月から9月に放送された。
震災の直後は、娯楽が避けられていた。繰り返し流れる公共CMは、今は笑ってる場合じゃないんだと言っているような感じがした。
「TIGER&BUNNY」は、ヒーローたちが困っている市民を救う物語で、笑ってしまう面白さもあれば、ヒーローがそれぞれに悩みと向き合う場面もあった。
気休めだとしても、アニメのヒーローが助けに来てくれたら、という妄想が当時は、押し殺した感情を出すきっかけになったのだと思う。
感情の多くは言葉で表すから、アニメを見ている間だけは、現実に封じられた自分自身の言葉を復活させられたのかもしれない。

流れる時間に癒されること、流れた時間の長さだけ薄れるという残酷さ。
震災をイメージしたサブカルの登場は、震災から4~5年経ってからだと、川口さんが指摘された。
例えば、映画「シン・ゴジラ」は、ゴジラが存在しない世界にゴジラが出現し、呼び名のない恐怖が日常を断ち切ってしまう。
映画のなかで、沢山の死者が出たはずなのに、死者を映すシーンはなかったそうだ。それが逆にリアルだと、川口さんはおっしゃった。
たしかに私たちは日常で、死者の姿を見ない。死者を描かないことで、死者を想像させた。
映画「君の名は。」は、彗星の欠片が日本のある村へ落ちて、村民がほぼ死んでしまった過去をなかったことにするために、心身が入れ替わった高校生の男女が時空を奔走する。
結果的に、あったはずの村民たちの死はなかったことになる。
作り話とはいえ、モヤモヤとした感情が残る。震災が起こらなかった過去を作れるなら、そうしたい気持ちはある。
でも、現実ではどう足掻いても過去は変えられないと、私たちは知っている。

過去をどう受け止めて、語ったり表現したりするか、問わざるをえない時代が来ている。
例えば、ジョージ・オーウェルのディストピア小説「1984年」では、主人公は過去を改ざんする仕事をしている。単純化された言語を使う世界になり、単純な言葉は思考も単純化されていく。
ベラルーシの作家で、ノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチさんは、東京外語大での講演で次のような言葉を述べた。
「私の本には普通の人が登場し、「ちっぽけな人間」が自分の話をします。ささいなこと、人間くさいこと。いつも日常の言葉から文学を作ろうとしてきました。」(2016年11月29日・東京新聞)
起こったことや失ったものを記録・記憶するためには、沢山の人の沢山の言葉が必要なのだ。
どちらかに偏ることなく、なるべく多くの言葉を集めることが、大切だと思う。