BOXING観戦日記

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Remembering Arturo Gatti

2009-07-13 23:11:47 | Translated Boxing News
下手な追悼文は私には書けない。David P. Greisman氏の記事を日本語に訳すことで哀悼の意を表明したい。原文はhttp://www.boxingscene.com/?m=show&id=20975を参照のこと。

「ボクシングの言葉」ガッティの記憶よ永遠なれ

最初の別れでは心臓を切り裂かれるような痛みを覚えた。最後の別れは彼の心臓が止まってしまったからだった。

アルツロ・ガッティが土曜の早朝、ブラジルのホテルの一室で死亡しているのが発見された。享年37歳。同ホテルには妻と幼い息子とともに滞在中であった。

今日から約2年前、我々は彼の最後の試合となったアルフォンソ・ゴメスへのKO負けに際して、彼に別れの言葉を贈った。ほろ苦い別離だった。我々は彼がこれ以上ダメージを受けるのを見るに忍びなかったのだ。それでも彼がダメージを受けながらも反撃するその様こそ、我々が彼の試合を愛してやまなかった理由でもあったのだが。

我々の心に彼が残る理由、それが何なのかを思い出すことがガッティにとって最高の称賛となろう。

それは彼のハートの強さだった。

2年前、もうこれでリングの上の彼も見納めかと感慨に耽った瞬間が思い出されてならない。今日この瞬間、もう二度と彼をこの目にすることはないと知った時、我々の心臓は鼓動が止まってしまうのではないかと思うほど締め付けられる。彼の雄姿を我々は忘れない。
安らかに眠ってほしい。

“A Requiem for Arturo Gatti,” originally published July 15, 2007.

“ガッティに捧ぐ鎮魂歌”2007年7月15日の記事より

“ヒューマン・ハイライト・フィルム”を締めくくる数々のエンドクレジットがある。

49戦。40勝。31KO。2階級制覇。20回以上におよぶHBOでの放送。4度の年間最高試合。

彼が呼び起した興奮は数え切れるものではない。

アルツロ・ガッティは全力で戦い決してあきらめないことで名声を得た。彼はパンチを効かされても即座に無尽蔵の根性で打ち返し、奇跡を起こそうとした。

リングサイド・ドクターを「まだ眼は見えてるぜ」と2度にわたって説得し、コーナーの椅子から立ち上がり、ウィルソン・ロドリゲスを5ラウンドにボディブローでノックダウンし、続く6ラウンドにまたもダウンを奪い、10カウントを聞かせたあのガッティ。ガブリエル・ルエラスのアッパーカットで頭を激しく上下に揺らされ、左眼下からは血が滴り落ちながらも、電光石火の左フックで試合を終わらせたガッティ。ファンはガッティの試合には大挙して押しかけ、ガッティがこれでもかというほどパンチを浴びるのを、彼の顔が腫れ上がるのを、試合前のオッズにも段々と開きが出るようになったことにも慣れていった。

だが、我々がヒューマン・ハイライト・フィルムと耳にして思い出すのはこれらの名シーンではないのだ。

フロイド・メイウェザーJrによる外科手術さながらの6ラウンドに及ぶ攻撃の後、ドランカーのごとき足取りでコーナーに帰っていくガッティ。当時のトレーナー、バディ・マクガートはガッティに試合を止めると告げる。ガッティのプライドはそれを許さない。「もう1ラウンドだけ戦わせてくれ!」だが、彼が椅子から立ち上がることはなかった。マクガートが彼の頭を両腕でひしと抱えていたからだ。だがこれも違う。

カルロス・バルドミールとの試合の第9ラウンド。左フックを浴びてふらふらと前のめりにキャンバスに倒れ込むガッティ。ロープを掴んで立ち上がるも、2度目のノックダウンでは仰向けでリングで大の字になり、動けない。消耗しきっている。完敗を喫したのだ。だがこれも違う。

土曜のアルフォンソ・ゴメス戦のガッティ。脚はよく動いたもののパンチが出せなかった。復帰戦を飾ろうと必死に強打を振るう場面はほとんどと言っていいほど訪れなかった。ニュージャージー州の体育管理委員長のラリー・ハザードSr本人がリングに上がり、流血試合を止めねばならないほどだった。ハザードの取った処置により、地元の人気者、アトランティックシティーのボードウォーク・ホール・アリーナに連続9回登場し、アメリカ全土で30戦を積み上げたボクサーのキャリアは終わることとなった。だがこれも違うのだ。

ヒューマン・ハイライト・フィルムのオープニングシーンは以下のようにして始まったのだ。

2002年5月18日。コネティカット州アンキャスヴィルのモヒガン・サン・カジノ。アルツロ・ガッティのミッキー・ウォードとの初戦の第9ラウンド。試合の勢いはそれまでの8ラウンドに何度も何度も両者の間を行ったり来たりしていた。このラウンドもそれまでと何一つ変わらないはずだった。

ウォードはスピードに乗って飛び出し、トレードマークである顔面から肝臓へとつなぐダブルの左フックをお見舞いし、ラウンド開始早々にガッティからダウンを奪う。苦痛に顔を歪めながらも、カウント9でガッティは右膝を上げ、立ち上がった。ウォードはこれで全部決めてやるとばかりにリング狭しとガッティを追いたてる。

しかしウォードはパンチをもらってしまう。ガッティはめり込むようなボディブロー、強烈な左フック、硬質なライトクロスで反撃する。今度はガッティがエネルギーを使い果たし、その間に回復を果たしたウォードは、よろめくようにロープに詰まり、全くパンチが出せなくなったガッティを攻め立てる。

HBOのボクシングアナウンサー、ジム・ランプリーはレフェリーのフランク・カプチーノに割って入り、試合を止めるよう要求する。だが、リング上の第3の男は2人の試合を続行させる。両腕でガードを固めるだけになったガッティはボクシング史上最高の試合の一つのボクシング史上最高のラウンドの一つをそこからダウンすることなく生き延びる。

数年前の記憶がフラッシュバックする。ガッティのキャリアは浮き沈みの激しいものだった。Sフェザー級トップ戦線への上昇と2年にわたる政権。3連敗。エンジェル・マンフレディに1敗、イヴァン・ロビンソンに2敗。4連勝でオスカー・デラホーヤ戦に辿り着くも、ガッティのコーナーはタオルを投入。10か月の戦線離脱。テロン・ミレットをTKOに下してガッティは蘇った。

ウォードとの歴史に残る3連戦は真のエンターテイナーとしてのガッティの地位を確固たるものにしただけでなく、キャリアの最終盤でも自分は正当な実力を保持したランカーなのだとボクシング界に証明することにもなった。

ガッティはSライト級で空位になっていた王座を獲得する。2度の防衛成功の後にメイウェザーに王座を明け渡すことになった。この敗北が終わりの始まりとなったのだ。ガッティは数年間にわたって減量に苦しんでいた。試合当日の夜には急激にリバウンドしていたが、それは同時に顔面を打たれた際の腫れやすさの代償でもあった。敗北に終わったメイウェザー戦はガッティを140lbで見る最後の機会となった。ウェルター級への転級は7ポンドの余裕をガッティにもたらした。

新しい階級でのガッティの初戦は当時無敗の34歳、全盛期を忠実なデンマークの観客の前で無為に過ごしたとも言えるトマス・ダムガードだった。ガッティはダムガードをTKOに仕留めた。彼の集客力に一目置いたカルロス・バルドミールは自身のウェルター級タイトルの初防衛にガッティを指名した。

ガッティはこれをもって勝ち星から見放された。

140lbまたはそれ以下では、ガッティはたいてい体格、スピード、パワー面のアドバンテージを使って欠けた部分を補うことができたが、一つ上げた階級は、特に目につくわけでもないKO率が重いパンチを持っていないことを必ずしも意味せず、自分よりも大きな選手相手にアゴの強さを試された経験がないわけでもないというナチュラルなウェルター級がひしめいていた。

ガッティはバルドミール相手には体格が足りず、ゴメス相手にも体格面で見劣りした。そしてリングの内外での生涯にわたる戦いで負った傷があまりにも多すぎた。バルドミール戦から356日のブランクを経て、ガッティの精神は若々しさを取り戻したと感じていたかもしれない。だが、彼の肉体はそうではなかった。

ゴメスは左フックを振るいながら、ガッティのジャブにカウンターの右を合わせてきた。ガッティは抗する術を持たず、358発のパンチを放ちながら命中は74発にとどまった。パワーパンチに至っては113発を放ちながら着弾はたった29発というお粗末な結果だった。7ラウンド最後の1分間で、ゴメスは右の拳をガッティの口腔にめり込ませるかのパンチを見舞い、ノックダウンを奪い、ガッティの唇を裂き、ガッティのハートを打ち砕いたのだ

レフェリーのランディ・ニューマンは傷だらけの戦士に必要以上の敬意を表したのかもしれない。ゴメスが試合開始から終了までガッティを打ちまくっていたにもかかわらず、カウントを数え上げた。だが、ニュージャージー州責任者のハザードがリングに上がり、試合を止めた。これについて多くのファンやオブザーバーが、残念ながらもそうせざるを得ない必要性があったことだと認めるしかなかった。

ガッティの長きにわたった伝説的なキャリアはここに終止符を打たれた。幾年もの間、カルト的なファンを持つ人物としての、ロックスターさながらの、流血と闘志の戦士としての、ファンがボクシングという甘美な科学を称賛する要素の実に多くを体現したボクサーの終焉であった。彼は達人の域に達したボクサーでもなければ、誰に対しても脅威となりうるようなプロボクサーでもなかった。だが、それにもかかわらず、彼はその資格ありとしてテレビ放送され、特集記事を組まれ、スポットライトを浴びたのだ。彼はロッキーだった。イタリアの種馬のロッキーだ。彼はどこにでもいるような平凡な男だったが、秘めたる力の全てを発揮した故に我々の喝采を勝ち得たのだ。

そう、ヒューマン・ハイライト・フィルムのエンドクレジットはこの部分を飛ばしては始まらないのだ。

2007年7月14日。アトランティックシティーのボードウォーク・ホール。ガッティは唇に貼られた絆創膏から血を滲ませながらも、HBOの最後のインタビューに答えるのだ。

「彼の方が強かったということさ」ガッティはインタビュアーのマックス・ケラーマンに答える。「彼はハングリーなボクサーで、若さもあった。俺は全力を尽くしたさ。アウトボクシングで十分さばけると思っていたが、自分よりでかい相手に追い詰められて、リングがどんどん狭くなっていった感じだった。Sライトとウェルターじゃ、全く違う自分になってしまう。苦しいね。140lbに落とせればいいんだが、もう無理なんだ。だからといってウェルター級で戦い続けるのにも無理がある。引退しようと思う。これ以上パンチを喰らい続けるのはいくらなんでも不可能さ」

同日の試合前、ケラーマンはガッティをダイ・ハードの主役、ブルース・ウィリス演じるジョン・マクレーンに喩えていたのだが、ガッティはカメラに向き直ると手を振って言った。その胸にはもう一人のアクションヒーローがいた。

「地獄で会おうぜ、ベイビー(Hasta la vista, baby)」

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