まずは辻昌建選手の冥福を心より祈る。
こうなってしまってはファンにできることはそれだけしかない。
「あの死を無駄にするな」と戦争や交通事故、医療ミスなどで言うが、
ボクシングにおいてもこれは当てはまる。
辻選手が亡くなる原因となった試合のレフェリングやコミッションの体制、
現行のルール、管理者・責任者の医療知識や技術、選手とのコミュニケーションなど、
考えるべきことは山積しているが、それらの検討や批判は他サイト・ブログに任せる。
ここで考えてみたいのは我々ボクシングファンはボクシングに何を求めているのか、だ。
1.内なる暴力衝動を昇華・発散させてくれる手段、いわゆるストレス解消。
2.純粋な競技性に注目して体力・知力・技術・戦術の競い合いを堪能する。
大別すればこの2つになるだろうと思われる。
1.の場合は余程のsadomasochisticな人間でない限り、
一方的な展開でなくともボクシング観戦は楽しめる。
むしろ接戦、熱戦の方がストレス解消につながる。
2.に関してはさらにそうで、試合や選手に特別な思い入れ・感情
(たとえば自分の嫌いなボクサーを自分の好きなボクサーがたこ殴りしてほしい、など)
がない限り、なぶり殺し的な展開は興醒めを通り越してさっさと止めろと思う。
私は寝ている人間を殴る・蹴るする総合格闘技には反吐が出る。
芸能人や高校生をリングに上げるK-1にも虫唾が走る。
(これは個人の好悪の問題で対象の優劣の話ではない、念のため)
21日の日本ミニマム級王座決定戦を私は観ていない。
だが伝聞によると素晴らしい試合だったようだ。
このような試合を途中で止めるのは難しい。
どの時点で止めるか判断するのが難しいのではなく、止めること自体が難しいと思う。
コミッションの体制やレフェリーの判断、陣営の決断の遅れを責めるのはたやすいが、
そのような、ずさんとも呼べるプロスポーツの存立が容認されているのは
ボクシングと暴力を明確に区別せず、過度の減量や死闘を美徳と捉えるファンが
現代日本にも相当数いるからではないかと考える。
ドイツのボクシングをやれ地味だ、やれ退屈だと我々は往々にして揶揄するが、
ドイツを拠点にするボクサーたちのファイトスタイル、
そしてドイツの観客のバイオレンスを楽しむというよりテクニックを鑑賞するという
あの姿勢は、ボクシング観戦の一つの規範を示しているのではないか。
昨年10月の観戦記から再度引いてみたい。
我々は往々にして激戦を「死闘」などと表現するが、
ボクシングファンは誰一人としてリング禍など望んでいない。
今年も韓国やフィリピンの選手がリング禍で世を去ったというニュースがあったが、
このような試合は常に観るものに問いを投げかけてくる。
「これぞボクシング」なのか「これがボクシング」なのか、
「これもボクシング」なのか、それとも「これはボクシングではない」のか。
それでも私はボクシングファンであることをやめない。
言葉そのままの意味で命懸けで闘うボクサーたちを、
誰かが見、聞き、語らなくてはならないのだ。