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思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

定電圧電源を作ろう①ツェナ

2009-12-14 23:08:46 | 電子回路
[ツェナダイオード:定電圧源の基本素子]

ダイオードは一般に電流を片方向にのみ流すものですが、逆方向にも着目してみると、なかなかおもしろい特性をしています。

ダイオードに逆方向の電圧を与えると、ダイオードは電流を流すまいとしばらく踏ん張りますが、電圧をどんどん上げていくとある地点でドッと電流が流れます。この電流を降伏電流とかツェナ電流と呼びます。ついにダイオードが降伏してしまうわけですね。(降伏電流に至るまでにも、ほんの少し逆電流が流れていることに注目してください。これがダイオードの漏れ電流です。)

さて、この降伏電流とVRの関係をみますと、VRに対してほぼ直角に電流増加していることがわかります。ということは降伏電流が流れているときのVRはほぼ一定の電圧であるということです。VRをツェナ電圧といい一般にVZと表します。この特性を積極的に使う目的(定電圧を得る目的)で作られたのがツェナダイオードです。NP接合をいろいろと工夫して、ツェナ電圧:2V~120Vくらいのものまであります。

関連記事:
「ツェナダイオードの特性」2007-09-04
定電圧電源を作ろう②エミッタフォロワ 2009-12-18
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変革と「再生」

2009-12-14 18:41:21 | 安全・品質
旧来より脈々と続く文化と風土。自らもその中で育ち、その文化風土が存在基盤であったにもかかわらず、現社長は「間違いであった」、社会的存在意識としてはもはや「非常識」と明確に認め、「再生」の決意を広く内外に言い切った。その勇気、潔さは見事としかいいようがない。

私もこの先そう長くここに居るわけではないが、現社長の思いや具体的活動に対して、個人としてできる最大限の協力をしたいと思う。

個人ができることは、基本的には非常にシンプルかつ簡単である。現在を含め今までを「間違い」とし、これを払拭し「再生」する、つまり現社長と同じ決意と意志を持てばいいのだ。社員および従業員全員が、タイミングを合わせてこう思えば、「再生」は一瞬にして達成される。

しかしこれは、実際にはあり得ない。誰がそう簡単に自己否定などできよう。ほんの些細なことでも、長く信じていたものが覆ればただならぬ不安に襲われる。それが今回は根幹部についての自己否定を求められるのだ。ここはまだ多くの信者が全体を占めている。信仰とは理由無く信じることだから、教祖が急に「間違っていた」と身を翻したところで、強烈なショックは受けても、そう安々と信仰を捨てることはできるものではない。

だから世代交代も想定して、本当に「再生」が実現するのは20~30年を要するだろう。その「再生」への道のりにおいて、現社長の理念がしっかりと継承されていくことを祈りたい。

関連記事:「グラスノスチ」
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倫理と道徳

2009-12-14 18:21:01 | 思索
倫理と道徳、これらは用法を間違えると極めて危険な言葉である。下に、倫理と道徳の辞書による意味を示す。

【倫理】人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。(大辞泉)

【道徳】人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。(大辞林)

大辞泉が倫理の説明として、道徳の二文字を用いているように、倫理と道徳は言葉の意味として密接している。これは大辞林による道徳の意味を見てもわかる。よってここでは、倫理と道徳を共に「倫理」という一つの言葉で表すことにする。

さて、「人として守り行うべき道」「善悪・正邪の判断において規準となるもの」このようなものが普遍的に存在し得るのかどうか。日本においては、戦前の倫理と戦後の倫理は明らかに異なる。また西欧諸国の倫理とアラブ諸国の倫理は明らかに異なる。さらに私の倫理と隣のおばちゃんの倫理が明らかに異なることを私は知っている。このように倫理に普遍性はない。倫理に普遍性がない以上、倫理そのものが存在し得ないことになるが、実際には倫理はそれぞれに存在しているわけで、これは言葉の曖昧さによる矛盾であろう。辞書の示す意味を表し、実際に使用可能かつ正確(安全)な言葉は「倫理観」あるいは「道徳観」である。「-観」が付くことで、倫理も道徳も人それぞれに異なる主観であることが明確になり、集団による統一思想となる危険性は減少する。

倫理と道徳がなぜ危険な言葉であるのかは、大日本帝国、ナチス・ドイツ等の国家主義、民族主義が犯した犯罪や歴史上の多数の宗教犯罪などが証明している。演繹的には、大辞林が説明している「自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く」、これが要点であり重要。自由や平和なども同様であるが、倫理と道徳に比べれば、現時点では危険性は小さい。(自由と平和の名の下にであれば、アメリカを始め地球上のほぼすべての国が犯罪国家であるが、冗長になるので割愛)

とりわけ昨今において、倫理や道徳の文字が記述されている文書等には十分注意すべし。それが、もし文書内に多用され、奨励されていればなおさらである。子供の倫理観や道徳観は、心配せずとも、家庭や集団の中での成長過程において彼らは自然に学んでいく。そもそも倫理や道徳は教え教えられるものではなく(ここが重要!)、自然に「知って」いくものである。その時、彼ら一人一人の倫理観、道徳観が微妙に異なっていれば、その集団や社会は健全であるといえよう。

関連記事:
「正義」2007-09-11
「しつけ」2009-12-01
コメント (2)
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