演奏:アンネ=ゾフィー・ムター、トロンヘイム・ソロイスツ
とあるコラムに、ムターのこの四季は好き嫌いが別れるだろうと書かれてあったが、初めて聴いたときにはなるほどと納得した。
「四季」はイ・ムジチ合奏団の模範的演奏をリファレンスとして、もっぱら他の演奏を聴いているが、その観点からのムター盤は、強烈なパンチと癖の強さにまず驚かされた。これは最初の印象として決して心地よいものではなかった。しかし人の驚くべき順応性はどのような場合にも働くようで、苦手なものもやがて好物に変わっていくのは不思議としか言い様がない。もう二度と口にしたくないと思ったミョウガが、今では冷奴には欠かせないと思ったり。
ともかく、多少の我慢をこらえて何回か聴いているうちに、うまうまとムターの思うつぼにハマった。これが世に言うところのムター節なのであろう。こうなってしまうと、イ・ムジチの模範演奏ではまったくもって、もの足りない。
ムターの四季は非常に人間臭い、つまり音楽の中にムターの主張がふんだんに投入されているのだ。これはおのずと、共感する人と拒絶する人に別れるだろう。これはソロ部において最も顕著であるから、春の二楽章、夏の二楽章、冬の二楽章は、現時点ではムター以外のものは聴きたいとは思わない。玄人好みの「秋」。イ・ムジチの演奏ではつまらないので、よく「秋」だけを飛ばして聴いていたが、ムターなら聴ける。そして、実は「秋」がソリストが最も頑張る曲であったことに初めて気づいた。「秋」は、これくらいのインパクトが必要なのだ。(余談だがカルミニョーラの秋もいい)
「冬」の一楽章では、ムターは思い切った試みをしている。これにはまいった。あんた、いくらなんでもこれはないでしょと最も違和感が強かったが、それも今では、これもあり得るなと思うようになった。むしろ一般的な演奏と同様に心地よい。その他、ムターのすべての演奏について言えることだが、演奏に込められた生々しく強い主張、つまりムター節、これにハマるかどうかということだろう。
(関係ないが、一度ムターに指揮棒を持たせてブラームスなどをやらせてみたい気がする。すごいことになるのではないだろうか。)
とあるコラムに、ムターのこの四季は好き嫌いが別れるだろうと書かれてあったが、初めて聴いたときにはなるほどと納得した。
「四季」はイ・ムジチ合奏団の模範的演奏をリファレンスとして、もっぱら他の演奏を聴いているが、その観点からのムター盤は、強烈なパンチと癖の強さにまず驚かされた。これは最初の印象として決して心地よいものではなかった。しかし人の驚くべき順応性はどのような場合にも働くようで、苦手なものもやがて好物に変わっていくのは不思議としか言い様がない。もう二度と口にしたくないと思ったミョウガが、今では冷奴には欠かせないと思ったり。
ともかく、多少の我慢をこらえて何回か聴いているうちに、うまうまとムターの思うつぼにハマった。これが世に言うところのムター節なのであろう。こうなってしまうと、イ・ムジチの模範演奏ではまったくもって、もの足りない。
ムターの四季は非常に人間臭い、つまり音楽の中にムターの主張がふんだんに投入されているのだ。これはおのずと、共感する人と拒絶する人に別れるだろう。これはソロ部において最も顕著であるから、春の二楽章、夏の二楽章、冬の二楽章は、現時点ではムター以外のものは聴きたいとは思わない。玄人好みの「秋」。イ・ムジチの演奏ではつまらないので、よく「秋」だけを飛ばして聴いていたが、ムターなら聴ける。そして、実は「秋」がソリストが最も頑張る曲であったことに初めて気づいた。「秋」は、これくらいのインパクトが必要なのだ。(余談だがカルミニョーラの秋もいい)
「冬」の一楽章では、ムターは思い切った試みをしている。これにはまいった。あんた、いくらなんでもこれはないでしょと最も違和感が強かったが、それも今では、これもあり得るなと思うようになった。むしろ一般的な演奏と同様に心地よい。その他、ムターのすべての演奏について言えることだが、演奏に込められた生々しく強い主張、つまりムター節、これにハマるかどうかということだろう。
(関係ないが、一度ムターに指揮棒を持たせてブラームスなどをやらせてみたい気がする。すごいことになるのではないだろうか。)