北国に住むと新しい年を迎えても春は全く考えられないのだ。毎日厚い雪雲に覆われ、やがて白いものが降ってくる。 ”今日も雪か”と嘆きたくなる。そんな季節に僕は3月分の放送原稿の作成に当たる。多分3月ともなると、さすがに北国とは言え、 春の兆しを感じるはずだ、と想像して書き始める。そんな時浮かんでくるのはこの言葉である。
「冬来たりなば春遠からじ」だ。誰もが知る言葉だが、訳した人は思い出せないが、言語はイギリスのシェリーという詩人が詠んだ詩である。 詩は単に春が近いという季節感を言い表しているのではなく、どんなに辛いことがあっても必ず希望を見出すことができる、という意味が含まれている。
放送原稿を書きながら厳冬の季節に一生懸命春を思い浮かべるのだ。それには春を表現した言葉を思い出せば何とか気分が乗る。 たとえばイギリスの詩人ブラウニングが詠んだ「時は春」という詩がつい口から継いでくる。これを上田 敏が訳している。
「時は春 日は朝(あした) 片岡に露みちて 揚雲雀(あげひばり)なのりいで 蝸牛(かたつむり)枝に這(は)ひ 神、そらにしらす。 すべて世は事もなし。 歳はめぐり、春きたり」とある。 自然を賛美しつつ、自由をもって飛翔する。それは自由と賛美の象徴なのだろう。 人生の晩年を迎える今でこそ、味わうことができるが、習った時代を思い起こすと確か高校生時代、教科書で習ったのではないかと思う。
そういえば、高校生時代長い間闘病生活を送ったことがあり、いつ治るのか、と不安と失意の日々だったとき、先に挙げた詩を思い出すのである。 若い時代の苦い思い出の中に残った言葉である。そして今、この季節は「春は名のみの風の寒さや・・・」と美しいメロディが相応しい。 「早春賦」だ。原稿をしたためながら、自分の中に春の兆しを探しているのである。放送予定は3月13日である。 その日、札幌はどのような風がささやいてくれるのか、待ち遠しい春である。
やさしいタイがー