今年も敗戦記念日がやってきた。あえて僕はこの日を「敗戦」という言葉を使うようにしている。71年前の暑い夏の正午、 近くの広場に集められた周辺の人々は、一様に暗い表情をしていた。「正午に重大発表があるから集まるように」とのお達しがあった。 僕は当時9歳、何事かと奇異な思いで叔母に手をつながれて参加した。時報とともに天皇の言葉が流れ始めた。初めて聞く声だった。
何とも不思議なトーンの話し方、そして何よりあまりにも難しい言葉遣いに何を話しているのか、全く理解できなかった。 むろん後になってわかるのだが、居合わせた人々の中には涙を流している人もいた。それが戦争を終えた宣言だということを知らされ、 何となく、気持ちが明るくなった思いがした。空は快晴だった。夏休み中でもあったので学校に行くことはなかったが、もうこれで先生から 暴行を受ける心配がなくなった、と想像していた。
戦時中の先生の中には軍服を着て、言葉遣いも荒々しく、クラスで誰か一人のいたずらは連帯責任だとばかりに全員が木刀で殴られた 経験をしていたからである。このように幼い年齢であっても容赦のない叱責と暴力にいつも怯える日々であっただけに、戦争がなくなると いうことはそれだけでも解放感が子供なりにあった。
当時この戦争を「聖戦」と教えられてきた。今にして思えば随分馬鹿げたことを真に受ける国民だったのだ。僕らもまた敵を憎み、駆逐しよう、 天皇のために命を捧げよう、勝つまでは耐え忍び、ほしがらない、といったスローガンを喜んで叫んでいたのである。学校のグラウンドは畑に なっていたし、体育といえば木刀を持って投げおろす仕草や体力を鍛えることばかりだった。クラス全員は野菜の肥料にと溜めた人糞を桶に 入れて運ぶ作業を強いられ、中にはふらついて頭から人糞を被るものもいた。僕もその一人だった。こんな話はつきない。 語り継げるほどのものではないかもしれない。
だが、空高くアメリカ機が飛び、強烈な爆弾が投下されるのを避けるために、小さな庭に掘った穴倉(防空壕)に身を寄せる日のことは 決して忘れない。 あの時の恐怖は体験したものでないと理解できないかもしれない。それでも今、声高に戦争を臭わせることを平気で 発言する有識者や国粋主義者がいることに嘆かわしく思うのだ。
実は今の日本、かなり危険な方向に向かいつつある。自衛隊の隊員たちはサマワに1500人ほどがPKOとして派遣されているし、 南スーダンにも後方支援として従事している。平和維持活動とは言え、危険がないわけではない。現場の指揮官は生々しい状況を把握している。 だが政府は心配ないという。しかし最近の安保関連法案の行使容認や「駆けつけ警護」と称して地球の裏側まで同盟国に参加するのだと 安倍政権はいきまく。おりしも安倍氏と価値観を共有する寄りによって稲田氏を防衛相につかせている。
彼らはいったい苛烈な戦争状況を、そして命の尊厳を真摯に受け止めているのか、不信と疑念を拭い去れないのである。 71年目の今日、何の日であったのか思い起こし、歴史に学びながら真の平和とは何か問い続けていきたいものである。
やさしいタイガー