ブログ人 話の広場

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誕生日を前にして

2013-12-24 12:20:12 | 日記・エッセイ・コラム

 今日はクリスマス・イブ。流れてくるクリスマスソングを聴いていると、自分の誕生日を祝ってもらっているような気分になる。そうなのだ。ぼくは明日78歳を迎える。海外に住む娘は「まだまだ若いわよ」と言ってくれた。「そうか、この年というのは、若いといわれる年齢なのだ」と我に返る。

  日々思うことはたくさんあるし、衰えていく体力を実感する。だんだん「老い」つめられているようには感じなくもない。だが今は世間がそう感じなくなった時代でもある。これはじっとしていたらもったいないぞとその気にさせてくれる。

  今年は2度の大病を患い、生きることの難しさを感じた一年であった。社会も荒れ模様の一年だったが、自分もまた思わぬ一年であった。しかし、人にはいろんな艱難辛苦があり、何とかそれらを乗り越え、潜り抜け、心身の健康を取り戻して歩んでおられる方も多いことを思うと、わが身にムチ打ちたい思いがするのである。

  「誕生日おめでとう」といわれると、いささか照れくさくなるが素直に感謝したくなる。そしてその言葉を励みにまた新しい一年を歩みだすのである。わずかな友人からではあるが、お祝いのメッセージやプレゼントをいただいたのもうれしいことだ。

  特にこの日に生まれたから信仰深いというわけではないが、60年近く前にキリスト教の洗礼を受け、長い間教会生活をし、キリスト教をベースにした場で働いてきた。こうした場での修養は、時には離反するほどの抵抗も経験もしたし、時が来ていつしか聖書を深読みする時代もあった。

  生命の限られた長さは、もはや峠をこえてくだりに差し掛かっているが、人生という面で考えてみると、「くだり」ということはなく、常に「のぼり」だけなのだと思う。信仰は傍らにいつも神 がよりそってくださることを意識していることだとすれば、最後まで登りきることだと教わる。

  振り返ってみると、時折信仰から離れた自分があった。神の足跡が消えた、と思っていた。しかし、今にして思えばそれは神の足跡が消えたのではなく、自分の信仰という足跡が消えていたのである。神は弱った自分を背負い歩き続けられていたことがわかった。ずっと続く足跡はいかなるときも変わりなかったのである。 

  そんな詩を読んだことを思い出す。東日本大震災を経て、多くの人が悲しみや苦しみの人に何もできないが、寄り添い続けたいと思っている。神のような心境にも似ている。私が弱い時こそ、強く導いてくれるのが私たちには見えない力、それが神ということなのかもしれない。

  そう信じてこれからも歩んでいきたい。強く思う78歳の誕生日である。

 やさしいタイガー