先に上げたブログの竹中郁の随想を文字起こししました。
「文字起こし」なんて言葉があるのかどうかわかりませんが、そのままでは読みにくい写真の文字を起こしたのです。
はじめての詩集 竹中郁
御多分にもれず、私のはじめての詩集も自費出版であった。自分の金ではない、おやじから百円也をせびっての疑似自費出版ということになる。大正十三年だった。関西学院の英文科の学生であった。
その以前、神戸二中に在学中、何の気なしに投書した詩が、四篇一しょに「詩と音楽」という大雑誌の本欄に抜擢されて、びっくりするやら、うれしいやら、それなのに、父や母にはないしょにして永らくだまっていた。
今なら、中学生の詩がそんな一流誌にのったのなら、結構新聞ダネになるところだが、当時はそんなことはなかった。もちろん学校にしれたら叱られるにきまっていた。
そんな動機で現代詩をかきはじめて、さて四五十篇もたまったとなると、本にしてみたい。おそるおそるおやじに百円をせびると、おやじは自費出版などということが理解できない。売るのか、というから買手があるなら売るが、多分ないだろう。と返事すると、いよいよわからんという顔をした。
それで一番わかりよい話として「芸者あそびをして、お茶屋に借金ができた」その流儀ならよくわかる筈だから、そういったら、図に当たってすぐ百円をだしてくれた。現在の貨幣価値に直すと、十五六万円に当るにちがいない。それで菊判上質紙百ページくらいの詩集ができ上がった。「黄蜂と花粉」というのがこれである。二十一才だったろう。あどけない作品ばかりだが、いやみのないのが、まあ取柄だ。ノラクラムスコの書いたものだから仕方がない。
「詩と音楽」は北原白秋と山田耕作との根城だったが、大正十一年九月に創刊、次の年の関東大地震でつぶれた。ぼくの詩ののったのは大正十二年一月号だった。どこかにのこっていないかしら。
「本棚」紙上のものにはハッキリした校正ミスの箇所がありましたので、それは修正しました。
また他にも違和感のある文脈がありますが、それはそのままにしました。
それにしてもいかにもあの時代の文章ですね。黄蜂が花粉をまき散らしたような。
竹中郁の個性が光っています。
「文字起こし」なんて言葉があるのかどうかわかりませんが、そのままでは読みにくい写真の文字を起こしたのです。
はじめての詩集 竹中郁
御多分にもれず、私のはじめての詩集も自費出版であった。自分の金ではない、おやじから百円也をせびっての疑似自費出版ということになる。大正十三年だった。関西学院の英文科の学生であった。
その以前、神戸二中に在学中、何の気なしに投書した詩が、四篇一しょに「詩と音楽」という大雑誌の本欄に抜擢されて、びっくりするやら、うれしいやら、それなのに、父や母にはないしょにして永らくだまっていた。
今なら、中学生の詩がそんな一流誌にのったのなら、結構新聞ダネになるところだが、当時はそんなことはなかった。もちろん学校にしれたら叱られるにきまっていた。
そんな動機で現代詩をかきはじめて、さて四五十篇もたまったとなると、本にしてみたい。おそるおそるおやじに百円をせびると、おやじは自費出版などということが理解できない。売るのか、というから買手があるなら売るが、多分ないだろう。と返事すると、いよいよわからんという顔をした。
それで一番わかりよい話として「芸者あそびをして、お茶屋に借金ができた」その流儀ならよくわかる筈だから、そういったら、図に当たってすぐ百円をだしてくれた。現在の貨幣価値に直すと、十五六万円に当るにちがいない。それで菊判上質紙百ページくらいの詩集ができ上がった。「黄蜂と花粉」というのがこれである。二十一才だったろう。あどけない作品ばかりだが、いやみのないのが、まあ取柄だ。ノラクラムスコの書いたものだから仕方がない。
「詩と音楽」は北原白秋と山田耕作との根城だったが、大正十一年九月に創刊、次の年の関東大地震でつぶれた。ぼくの詩ののったのは大正十二年一月号だった。どこかにのこっていないかしら。
「本棚」紙上のものにはハッキリした校正ミスの箇所がありましたので、それは修正しました。
また他にも違和感のある文脈がありますが、それはそのままにしました。
それにしてもいかにもあの時代の文章ですね。黄蜂が花粉をまき散らしたような。
竹中郁の個性が光っています。