マーラー:「さすらう若人の歌」(1)
「リュッケルトの詩による歌曲」(2)
「亡き子をしのぶ歌」(3)
バリトン:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
指揮:ラファエル・クーベリック(1)
管弦楽:バイエルン放送交響楽団(1)
指揮:カール・ベーム(2)(3)
管弦弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(2)(3)
その昔、バリトンのディートリヒ・フィッシャー=ディースカウがマーラーの「さすらう若人の歌」「リュッケルトの詩による歌曲」「亡き子をしのぶ歌」を録音(1963年4月、ミュンヘン)したレコードを、私はレコード盤がする切れる程愛聴した。つまり私のクラシック音楽リスナー人生にとって決して忘れることのできない録音なのである。フィッシャー=ディースカウが60歳になったことを記念して、そのときの録音をCDとして発売(1985年)したのが今回のCD。フィッシャー=ディースカウの声の質は、安定感があると同時に、包容力もあり、さらに知的な雰囲気が何といってもいい。当然、声の質そのものも美しいのであるが、単に綺麗な声というよりも、味わいの深さが際立つ声である。単に歌手が歌う曲を聴いているというより、親しき友人や先輩に話かけられているような親密感がする。聴いた後は、何かそれまでのもやもやが一挙に解消してしまうような気がするから不思議だ。フィッシャー=ディースカウが引退した後、現在に至るまでフィッシャー=ディースカウに匹敵するバリトンを探し出すことは容易なことではない。
マーラーの「さすらう若人の歌」は、マーラーが23歳の若いときに自作に詩に作曲した曲。自身の失恋の経験を歌曲にしたとされている。全部で4つの歌曲(君がとつぐ日/露しげき朝の野べに/灼熱せる短刀もて/君が青きひとみ)からなる。若者特有の夢と挫折感が微妙に交差するようなさまが描かれ、稀に見る美しい歌曲に仕上がっている。フィッシャー=ディースカウは、そんな若者特有の揺れ動く心理描写を巧みに表現しており、リスナーの気持ちをがっちりと掴んで離さない。
「リュッケルトの詩による歌曲」は、ドイツ・ロマン派の詩人フリードリヒ・リュッケルトの詩をもとにマーラーが作曲したもので、通常「最後の7つの歌」として歌われるが、ここでは、その中の4曲(真夜中に/ほのかなかおりを私はかいだ/私の歌をのぞかないでください/わたしはこの世に忘れられた)が歌われている。4つの歌とも文学の香りが濃厚に立ち込めるような雰囲気につつまれている。フィッシャー=ディースカウはそんな曲を、丁寧にかみくだくように表現しており、思わずそんな世界に吸い寄せられる。ここでのマーラーのオーケストレーションの巧みさが一際光る。
マーラーの「亡き子をしのぶ歌」は、1904年に作曲された。作曲した時は、マーラーの子供達は健康な生活を送っており、妻のアルマは何故マーラーがそんな曲を作曲したのか、訝しがったそうである。後に娘の一人が死ぬが、アルマは不吉な予感が的中してしまったことに愕然としたそうである。全部で5つの曲(いま太陽は明るく昇る/いま私には分るのだ、なぜあの暗い炎を/おまえのお母さんが/よく私は考える/こんなひどい嵐の日には)からなる。5つの曲とも、子供を亡くした親の心境が表現されており、胸を締め付けられるような悲痛さが聴くものの心を打つ。フィッシャー=ディースカウの感情移入は凄まじく、自身泣きながら歌っているようにすら感じられるほどである。(蔵 志津久)