暑いけど風がさわやか

2010年06月17日 | Weblog


 暑くて畑に出る気がしません。作物の管理と言うよりも雑草取りばかりやっているせいです。負の仕事ですから、つまらないですね。が、これを負と考えるとやる気がなくなりますから、取る事により作物が育つと考えれば正の仕事になるでしょうね。

 後で後悔、じゃなくって後になって悔やむ事になりますね。後で後悔、前にも後悔なんちゃって。前悔ってのは無いですね。いつも後になって悔むなら、後悔という言葉自体もおかしいような気がしないでもない。それはともかく、「 我、日に三省す 」 は孔子で、  私の場合は 「 我、日に三悔す 」 です。今日は始めっからくどいですね。


 

 小松菜の炒め物はおいしいです。油のとりすぎに気をつけましょう、なんて言ってもやっぱりおいしい。


 

 いいところですね~。実物より水に映った物の方がはっきりしているような感じがします。 先日行ったバラ園の隣にありました。

 

 サボテンは一枚が新聞紙の半ページくらいの大きさになっていますが、とうとう自分の重さに耐えかねて途中から折れてしまいました。

 バカだねぇ。あんまり大きくなりすぎるからだよ。みっともないじゃないか。なんて言ってやりたくなります。で、いまこれが何かに利用できないか考えています。暇だねえ。 

 折れた所から挿したりして増やしても仕方がないので、これをミンチにして食べるとか、鶏にやるとか、あるいはそのまま堆肥の中に入れて腐らせてしまうとか。たい肥の可能性が一番大きいですね。


 

 この数週間のうちに、こういうものを読んでみました。女流の日記とそれに準ずるようなものばかりです。このほかに「更級日記」がありますが、それはまだ買ってきてないです。部分的には読んでいます。そのうちに一気に読んでみようと思っています。現代語訳がついているので、楽に読めます。

 全部和歌がからんでいます。レベルは雲泥の差以上のものがありますが、私の廃句と同じに、和歌の中に生活のことが読み込まれています。 「 あなたがそうだったから、こちらではこうなったのです。」 とか、「 あなたがそれを言ったのでに、あとで何度も考えて、こう感じましたよ。」 なんていう手法が多いですね。ただ一つ、絶対に違うのは、私の廃句には男女のからみが載っていないことです。つまり、私の廃句には色恋の気配がさっぱり感じられないということですね。なにせ、その器量がないものですからねー。

 しかし、何せ1,000年くらい前のことですから、同じ語でも持つ意味も異なる事もあるし、使い方も違う場合もあります。そのほかに、どうしてもわからない表現があります。これらの本を編纂した学者も分からないものは、そのままにしてありました。

 分からないのは一種の苦しみですが、それはそれとして素晴らしいと思いました。そんなに昔の頃から、このようなしっかりとした文学が出来上がっていたとは。日本人てのはすごいなあと思います。ビバ・ジャパニーズです。


 


     廃 句

        今日もまた 色恋なしで 行きますか
        夏草や 百姓どもが 夢の跡
        此道や 行人なしに 雨の暮
        五月雨を 集めてかける 植木鉢
        むざんやな 路に轢(ひ)かれし マムシかな
        五月雨や 大河を前に 救助待つ
        あらとうと 青葉若葉の 野菜かな
        これがまあ びっくりぐみと 言うものか
        荒海や 里はいずこか 天の河
        月天心 貧しき町の 裏小路