乳がん患者のサロン2 - ノエル編

乳がん患者の皆様、このサロンでのびのびと雑談しましょう。くつろぎの場です。

割りばし事件報道

2009年07月04日 | マスコミ
松本サリン事件が起きて15年。第一発見者の河野さんは、当時、まるで犯人のように報道されていました。
もし、あの時、裁判員裁判にかけられていたら…。
裁判員のうち、だれも報道に形成された世論に同調はしなかっただろうと想定できるでしょうか。

長い沈黙を破った人の声です。
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「割りばし事件」に対する報道はペンの暴力 2009. 6. 18

   裁判所の判断を軽視して法治国家といえるのか 長谷川 誠(杏林大学耳鼻咽喉科学教室前教授)

 私が杏林大耳鼻咽喉科教授だった時の教え子が刑事責任を問われた裁判で、2008年11月、東京高等裁判所は教え子の過失を認めず無罪判決を出しました。民事裁判においても過失なしとの判決を下しました。刑事および民事の両裁判で、東京高裁が正しい判断を示したことに対して、関係者一同、心から感謝しています。

 この事件は、お子さんが割りばしを口にくわえて転び、その割りばしが脳に達して亡くなった不幸な事故です。医療事故ではなく、ましてや医療ミスでもありません。そのことが法的に立証されました。私どもの力が及ばず、お子さんを救えなかったことについて重く受け止めており、心からご冥福をお祈りしてきました。

 しかし、この事件は医学的には極めて難しいケースであるにもかかわらず、夜間の救急外来において診断できなかったことの刑事責任を問われたために、私どもは大きな違和感を持ち、法廷において法律的に対応してきました。わが国は法治国家であり、刑事責任を追及された以上は、この件は法廷でのみ決着させるという信念に基づき、これまで公の場での発言を一切控えてきました。

 法的な決着がついた今、改めて報道機関の現在までの対応に対して意見を述べたいと思います。

 まず問題としたい点は、刑事裁判の地裁、高裁において無罪、また民事裁判の地裁、高裁において過失なしと判断された後でも、一部の報道では自分たちの主張が認められなかったことへの不満からか、紙面や番組の構成で、あたかも医師に過失があったかのような印象を与える情報操作を行っています。

 今回の事件の事実関係はすべて明らかにされているにもかかわらず、一部の新聞やテレビ番組では、隠された事実があり、それが公開されていないがために、無罪判決になったように報道されていました。専門家以外の方が感情的にコメントするテレビでは、仕方がない面もあるかもしれませんが、客観性をうたい、社会の良識を代表すると自認する大新聞までもがそれでよいのでしょうか。

裁判所の判断も尊重しない報道機関

 この明らかにされている事実関係について、被告側、検察側の医学、法律の専門家が医学的、法律的に過失があったかどうかを議論し、裁判所は最終的に医師側の見解が正しいと判断したのです。刑事、民事の高裁の判断は社会において尊重されるべきであり、それが法治国家のルールです。報道機関には社会正義を守るために、報道の自由と、報道のための編集の自由が社会から与えられています。裁判所の判断を尊重しないこのような報道機関の姿勢は、まさに法治国家の理念を否定するものです。

 亡くなったお子さんの担当医だった私の教え子は、不当なペンの暴力により医師としての人生を大きく狂わされました。報道機関は自分たちこそが正義であるという視点に立ち、世論を誘導して著しい人権侵害を引き起こしてきました。限られた時間での記事執筆が求められている以上、ときには間違った報道をしてしまうこともあるかもしれません。しかしながら、報道の誤りが明確になった時点では、報道機関は誤った報道について真摯(しんし)に反省し、自分たちの判断のどこに誤りがあったのかを検証して、それを報道すべきでしょう。

 報道と編集権の自由とは、報道機関が自分の都合のよい情報だけを提供することではないはずです。今回の事件は、社会が報道機関に与えている、報道と編集権の自由について、報道機関自らが改めて考えるよい機会であり、報道機関には今後も社会の木鐸(ぼくたく)としての重要な役割を担ってほしいと願います。

医療崩壊の理由は医療システムの問題にあらず

 現在日本の医療は危機的状況に陥っています。特に産科医療に関しては、ほぼ崩壊状態といっても過言ではありません。その原因には様々なことが挙げられています。保険制度を含めた医療システムの問題、医師の不足による勤務医の過酷な労働状況、病院勤務医と開業医、または各診療科の医師数の不均衡などが論議されています。

 いずれも一見理にかなった分析のように見えますが、これらが改善されても医療危機がすべて解消されることはないでしょう。今から10年以上前の医療状況を思い出してみてください。医師の数は現在より8%程度少なかったにもかかわらず、医療は現在ほど危機的状況にはありませんでした。また、救急患者の受け入れについても、今日ほど大きな社会問題にはなっていませんでした。

 医療危機が一気に進行したのは、医療システムの問題でもなく医師不足に陥ったからでもありません。医師が「患者さんのために働く」という最も重要なモチベーションを失い、医療の最前線から立ち去ったためです。何がそのような行動を多くの医師に取らせたのでしょうか。それは、善意に基づいた医療でも、その結果が悪ければ刑事責任を問うという社会の姿勢です。医療危機のきっかけは、経済問題でもなく、過酷な勤務状況でもありません。大病院の勤務医は労働条件に見合わない低収入や過酷な勤務状況に対しても、不満を自ら封印して社会のために貢献してきました。しかしながら、善意に基づいて行った医療行為の結果が思わしくなかったという理由で、刑事責任を問われる事態が起こり、医師は初めて自分たちの価値観がいかに社会、特に報道の価値観と懸け離れているかを思い知らされて、現場から立ち去っていったのです。その大きなきっかけが割りばし事件でした。このような医師への刑事責任追及に対して報道機関の果たした役割は極めて大きく、報道が今日の医療の危機的状況を作り出したといえます。

現在の医師数は決して少なくはない

 一度失われた医師の価値観を再び取り戻すのはなかなか難しいことです。その状況下で、できるだけ早く現在の医療危機を乗り越えるためには、医師の勤務状況を改善して一般の勤労者と同じ労働条件を法律で保障する必要があります。

 ただし医師の数についていえば、多くの識者が述べている「日本の医師数は他国に比べて著しく少ない」とする考えは正しくありません。日本の人口に対する医師の数はオーストラリアやカナダと比べても大きな差はありません。まして、同じ人口でも国土が広ければ、同一の医療環境を保つためにはより多くの医師を必要とします。そう考えると、わが国の医師数は実質、オーストラリアやカナダとほぼ同じといえるでしょう。

 オーストラリアやカナダは日本と似た医療制度を採用していますが、この両国に医療危機が起こっているという話は聞いていません。従って、単に医師の数を増やすことが直ちに医療崩壊の解決につながるとは思えません。

 長期的には、「善意に基づく医療行為の結果については刑事責任を問わない」という原則が再び社会に確立されれば、多くの活力ある医師が大病院の臨床現場に戻ってくると思います。一般に医師は難しい臨床の現場で働くことに誇りを感じる人種であり、この原則が確立されれば、将来多くの医師が病院に踏みとどまると思われます。安易に医師を大量生産するだけでは、将来、さらに難しい問題を抱える可能性もあり、慎重に対応すべきだと考えます。
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>限られた時間での記事執筆が求められている以上、ときには間違った報道をしてしまうこともあるかもしれません。しかしながら、報道の誤りが明確になった時点では、報道機関は誤った報道について真摯(しんし)に反省し、自分たちの判断のどこに誤りがあったのかを検証して、それを報道すべきでしょう。

正にその通りです。他人に求めるばかりで自身がいい加減では、誰も信用しなくなります。福島県立大野事件もそうですが、その道の専門家とマスコミと、あまりにかけ離れた見解を出した時点で、マスコミは熟考すべきです。

また、裁判員となったら、マスコミ報道をどこまで参考にするか、、、は、この記事から、大きな問題であることがわかります。報道の裏側にはスポンサーがいることをお忘れなく。


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なかのひと

This blog “The salon of breast cancer women authored by Noe:l” is able to read in Japanese:-)