79-「胡蝶」(1904・明治37年)
中国の戦国時代、宋国の思想家荘子が著した本の一編に
「胡蝶の夢」というのがある。
昔、私は胡蝶になった夢を見た。
ひらりひらりと空を舞い、まぎれもなく蝶だった。
ふと目覚めると、そこにいるのは私。
はたして私が胡蝶か、胡蝶が私なのか、
胡蝶と私の外見は明らかに違うが、己の本質に変わりはない。
これを物化という。(筆者意訳)
という実にナンカイなことを言わんとしているのだ。
つまりは、夢と現、いずれも真実で本質は一つ??
『夢にや人の遊びけん
蝶や人とはなりにけん
春風の 文読む窓に吹き入りて
読み残す書の幾枚か
ひらりひらり ひらひらと
開きし中の押し花の
桜は去年の枝折かや
根に返らねど又春に
仰ぐ光のうららかさ
共に萎れし乾胡蝶
風が命か 魂か
花の塵かや 糸遊の
翼も軽く飛び出でて』
この曲の作詞は、坪内逍遥の知人でもある小説家、劇評家の饗庭篁村。
「胡蝶の夢」のさわりを引用して、イメージを膨らませたという内容。
ドライフリーズしていた蝶が、風に誘われ魂を吹き返して、かつてのように空に舞う。
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tea breaku・海中百景
photo by 和尚
中国の戦国時代、宋国の思想家荘子が著した本の一編に
「胡蝶の夢」というのがある。
昔、私は胡蝶になった夢を見た。
ひらりひらりと空を舞い、まぎれもなく蝶だった。
ふと目覚めると、そこにいるのは私。
はたして私が胡蝶か、胡蝶が私なのか、
胡蝶と私の外見は明らかに違うが、己の本質に変わりはない。
これを物化という。(筆者意訳)
という実にナンカイなことを言わんとしているのだ。
つまりは、夢と現、いずれも真実で本質は一つ??
『夢にや人の遊びけん
蝶や人とはなりにけん
春風の 文読む窓に吹き入りて
読み残す書の幾枚か
ひらりひらり ひらひらと
開きし中の押し花の
桜は去年の枝折かや
根に返らねど又春に
仰ぐ光のうららかさ
共に萎れし乾胡蝶
風が命か 魂か
花の塵かや 糸遊の
翼も軽く飛び出でて』
この曲の作詞は、坪内逍遥の知人でもある小説家、劇評家の饗庭篁村。
「胡蝶の夢」のさわりを引用して、イメージを膨らませたという内容。
ドライフリーズしていた蝶が、風に誘われ魂を吹き返して、かつてのように空に舞う。
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tea breaku・海中百景
photo by 和尚