ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

あなたの父と母を敬え。

2020年06月15日 | 立ち止まって考えること
 
 昨日の日曜礼拝では、献児式がありました。献児式とは、新生児の祝福式です。日本の伝統習俗の宮参りのようなものでしょうか。子供の成長を祝福する儀式は、ほかに、七五三の日に児童祝福式などが行われていますが、献児式は、旧約聖書のレビ記に定められてる神の律法で、イエス様も、生後まもなくマリヤとヨセフの夫婦に連れられて宮参りをしたという記録が、ルカの福音書2章にあります。

 二年ほど前に結婚したカップルの男の子は、生後半年くらいのなのに、はや、九キロあるとのことです。目鼻立ちも髪の毛も濃くて、この先が楽しみな成長ぶりです。牧師が、男の子を横抱きにして祝福を述べている間は静かだったのに、祝詞の最後に「アーメン」というと、「アー」と大声を上げたのです。幼子にも、式に意味がわかったのかしらと、みんな思わず、笑顔になりました。

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 説教は、おりしも、出エジプト記の中の十戒です。
 タイトルは、「あなたの父と母を敬え」。献児式に合わせたのではなく、このところのテーマである出エジプト記の講解説教の続きです。
 じつは、旧約聖書の専門家であり、聖書考古学者として某有名大学の教授でもあるS牧師は(学位のある牧師はとくに珍しくないし、ほとんどそれらを表に出されない方も多いのですが、いつもと少し角度の違うアプローチだったので、あえて)、どちらかといえば、理詰めのお話が多いのですが、昨日のお話は、心に訴えてくるものがありました。

 それは、「父と母を敬え」は、(教育のなかで)子供に語られているのではなく、成人した大人に対する命令だということです。
 成人した大人なら、親は老いを迎えているはずで、弱ってきた親、振り返れば葛藤や齟齬に苦しめられたかもしれない親、欠点だらけの親であっても、その時こそ、それゆえに、「親を敬いなさい」と、神様は言われている。

 私たちの内、だれ一人親を持たない者がいないのは事実です。生まれる前に父親を亡くしたり、子を捨てて自分勝手な生き方をしたりする親、あるいは、期待したような方法で自分を育ててくれなかったと思ったりしても、さらに、りっぱな親だと思っていたのに、認知症になり、手ばかりかかるようになっても、「親を敬いなさい」ということなのだ、と聞いて、「ああ、なるほど」と、目からうろこが落ちた気がしました。

 自分が「ある人」の子であるというのは、じつに神秘的な事です。いくら考えても、解答が出ることではありません。父Aと母Bが出会うまでのいきさつを、どんなに詮索しても、あなたが生まれたという神秘を解くことはできないのです。老いていく親、無価値になっていくように見える親を、それでも敬いなさいと言われて、深くうなずいてしまうのは、やがて、自分が老いていくということとも、違うと思います。

 自分がどこから来て、どこへ行くのかということを突き詰めることができるのは、人間だけです。
 それは、「神に祈ることができるのは、人間だけだ」という事実と同根ですね。




エジンバラ公フィリップ殿下

2020年06月12日 | 思い出

 2014年の記事の焼き直しです。
 旅行中の失敗談ですが、結果的には、楽しい思い出になったことです。
 この数日、メディアで、エリザベス女王の旦那様フィリップ殿下が取り上げられているので、あの日の出来事を思い出したのです。

         ★  
     
 1991年9月でした。正確な日付けは覚えていません。
 一か月ほどのショートステイで、ロンドン郊外のベッケンハムという町にいました。
 ウィークデイは英語学校で英語の勉強をしているということに、休日は観光にと、気楽なホリディを楽しんでいました。

 それは土曜日か日曜日でした。私は、バッキンガム宮殿の衛兵交代を観に行こうと思いt立ち、イギリス国鉄と地下鉄を乗り継いで、なんとかバッキンガム宮殿の門の前までたどり着いたのです。
 ところが、どこで間違ったのか、着いてみると、もうその日の儀式は終わっていました。あまり人もいないがらんとした門前で、「さて、どうしたものかしら」と思案してしまいました。
 「きちんと時刻表を調べて、早めに出てこないから衛兵交代を観そびれてしまった。相変わらず、ドジだね。あんたは。さて・・・」
 自分に毒づいてみても、始まりません。

 吹っ切れない気持ちで、丈の高いいかめしい門扉から、遠くに見える宮殿の玄関を見つめました。
 ふと、玄関へ通じる車寄せに、黒塗りの大きな車が待機しているのが、目に留まりました。
 そばに正装の運転手が立っています。車に詳しくない私でも、それが特別の「御用車」だとわかりました。

 「どなたが出てくるのかしら。エリザベス女王さま? エジンバラ公?、それとも」
 しばらくすると、正面の大きな玄関ドアが開いて、男性がお二人出てきました。
 なんと、お一人は、日本の皇太子殿下でした。今の天皇陛下です。
 すぐ後から出ておいでになった背の高い紳士が、エジンバラ公なのは、遠目にもわかりました。

 お二人は、さりげなく立ち話でもするように言葉を交わされている様子で、やがて握手をされました。
 タイミングを計ったように、黒塗りの車が玄関前に回っていきました。皇太子殿下が乗られると、車が動き出し、タイミングを合わせるように開いたバッキンガム宮殿の門に向かってくるのです。

 こういう時は、私もやはり日本国民ですね。
 思わず、車に、手を振っていました。
 何か叫んだかも知れませんが、覚えていません。なにしろ、ふだんは日本人観光客がいっぱいいるはずの、あたりに、まるで日本人がいなくて、まばらな外国人観光客たちは、だれも車の中の方が日本の皇太子だとは気付かないようでした。

 車が消え去った後も、しばらく呆然と門扉の前に立っていました。

 こういうことがあると、思うのです。
 旅行はスケジュール通りにいかなくてもいい。ハプニングがあるから、楽しい!!

 遠目ですが、思いがけず女王陛下のご主人と日本の皇太子殿下をお見掛けするなんて、ラッキー!!





戦場のピアニスト

2020年06月09日 | 歴史
2014年10月11日 の記事より


 いつもなら眠りに落ちている時間に、深夜映画を観てしまった。

     「戦場のピアニスト」

 2002年劇場公開された頃に観ています。
 題材もストーリーも、とても重苦しい戦争映画なのに、
 心の奥に、どこかリリックな影を刻印するような感動があった。
 と、記憶しているのだけれど、細かな筋書きはほとんで忘れていた。

 第二次世界大戦で、ヨーロッパ戦線ということになれば
 まず、ナチスの偏執狂的な悪を外すことはできないでしょう。とりわけ、
 ユダヤ人撲滅作戦としか言いようがないユダヤ人に対する迫害は、
 目をおおうばかりのものだったのです。そして、
 この映画も、ピアニストであって、社会的には非力と見えるような
 一人のユダヤ人青年が、ナチスのユダヤ人狩り、ゲットー、ガス室へと続く果てのない弾圧の中で、かろうじて逃れ、隠れ、生きる話です。

              ◎  ◎  ◎


 これは、実在したユダヤ系ポーランド人・ピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの体験記を脚色して、映画化したものだそうです。
 といっても、ピアニストとしての活動はほとんど出てきません。
 逃げ回る彼が夜、まどろむとき、手の指がピアノのキーをたたくかのように、動くだけです。

 空襲で破壊された廃墟で隠れ住む彼も、最後には、ナチの将校に見つかり、あわや・・・という瀬戸際で、
 ピアニストであったために窮地を逃れるのです。

 彼を見つけたナチの将校は、彼がピアニストであるかどうか
 確かめるために、廃墟にあったピアノを弾かせるのです。

 その素晴らしい演奏に、将校はくぎ付けになり、彼を生かし、食糧まで届けてくれるようになるのです

            ◎  ◎  ◎

 身分証明書(アイデンティフィケイション)という言葉が何度か出てきます。

 もとより、逃亡中のシュピルマンに、そのような証明書はありません。
 けれども、ピアノを弾くことで彼は自分のアイデンティティを証ししたのです。
 これは、身分証明というものが何であるかを、言い表していると思いました。

 私たちは、身分証明書――政府や会社やどこかの権威ある団体が
 客観的に自分の存在を保障してくれるものを渇望するのですが、
 権威のあるだれかが発行する「紙切れ」ではない自分。
 自分は、「これだ」と言えるものなど、私にはあるのかしらと考えさせられる
 クライマックスでありました。


 それにしても、旧約聖書の記録の中で(旧約聖書・列王記。歴代誌)、
 すでに、捕囚として民族離散の憂き目にあい、
 その後、ペルシャ、ギリシア、ローマなど、大国の植民地でありながらも
 なんとか、ユダヤを国家として存続させていたユダヤ人。

 紀元七四年のユダヤ戦争で、ローマ帝国に完全に敗北し、エルサレム神殿も破壊され、以降、
 第二次大戦終了後の現イスラエル共和国の成立まで、国家がなかった国民なのです。

 国(領土と政府)を失い、国民が散り散りになって一九〇〇年間もアイデンティティを保つとは、本当にすごいとしか言いようがありません。



       


映画「尼僧物語」について

2020年06月08日 | 聖書


 たまたま、また、テレビで、オードリー・ヘプバーンの尼僧物語が放映されていた。
 過去、何度か観ているけれど、キリスト者になってから見ると、「ああ、こういう物語だったのだ」と、感慨がある。
 かつては、ストイックな宗教的戒律と世俗のさまざまな問題との間で、次第に信仰的純粋さに疲れ、やがて還俗してしまう修道女の物語としてしか読めなかった。

 父親がナチに殺されたのに、地下抵抗運動への加担も許されなくなったとき、
 教えについて行けず修道院を離脱する尼僧ルークに共感を覚えただけだった。


               ◎  ◎  ◎


 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。
 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、
 悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせて下さるからです。
 自分を愛してくれるものを愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。
 取税人でも同じことをしているではありませんか。
 また、自分の兄弟だけにあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。
 異邦人でも同じことをするではありませんか。
 だから、あなたがたは天の父が完全なように、完全でありなさい。
             (新約聖書・マタイの福音書5章43節~48節)      


 キリストは、「あなたの敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい」と言われたのです。 敵を愛するのです。
 旧約聖書では、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と命じられています。イエスはそれを一歩進めて、「敵をも愛せ」と仰せになったのです。

 聖書では、隣人(となりびと)の意味は、同じ家族、氏族、民族――はっきり言えば利益共同体にある人々なのです。「取税人や異邦人」は、ユダヤ人の利益を損なういわば敵対する人たちです。

 確かに、「愛」は、べつに聖書を知らない人たちの間でも、いくらでも見られます。
 親が子供を愛するのは自然なことです。どれほどの犠牲をはらっても、親は子供を愛して子供を育てていくでしょう。
 親戚や仲間ともできれば平和に仲良くやっていきたいのです。
 難しいのは、敵を愛すること、迫害するもののために、祈ることです。

 ちなみに、さとうはひどい迫害にあったことはありませんが、ほんとうに敵に苦しめられたら、彼らを愛し祈るなどできるかしらと考えてしまうのです。

 尼僧ルークの選択は、大部分の観客から共感をもって見られるでしょう。それ自体は間違っているなどと、誰も言えないと思います。

 ただ、ルークの心の中には深い懺悔の気持ちがあったと読まなければいけないのではないでしょうか。
 尼僧ルークは、レジスタンスか、信仰かという二者択一の中で、自分が、「神の基準」にとうてい届かないことを、あらためて自覚したはずです。
                 
 ここで初めて、「観念的で美しい信仰」が、「本物の煉られた信仰」に生まれ変わったはずなのです。
 神のみこころは、私たちが限りなく神に近づくことではなく、自分が神の基準にほど遠い者、それゆえ、十字架の救いが必要だと知ることなのですから。     

 このテーマの深さゆえに、この映画が、何度見ても古びないのだと改めて思ったのです。       





       

聖書の鍵穴

2020年06月07日 | 聖書

 神である主(しゅ)は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。(創世記第2章7節)

 創世記の天地宇宙の創造は、人間の創造で締めくくられています。
 造ったのは、神である主です。何もなかったところから、宇宙とそこにあるもの、地上とそこにあるもの、昼と夜といったカレンダーまで、ことごとく、神が造ったと、創世記は書いています。
 聖書は、それを読む人に、最初から、神を認めなければ、ならないと気づかせるのです。③で述べたように、神が主役であると認めることが、聖書の世界に入る扉の鍵なのです。

 このことに、気がつかない私は、扉の前で長い時間右往左往していました。扉が開いていないのに入ろうとしていたのです。そこに、鍵穴がある事も気がつかなかったのです。

 理由ははっきりしています。すべてを神が造り、神が支配し、神の摂理が世界を生成流転させているといった考え方に、それまで接したことがなかったので、思いも及ばなかったのです。
 自分は無神論者である、と、自覚があったわけでもないのです。「神様のようなものはいるかもしれないなあ」くらいの想像はするのです。でも、神様が私の生活の主役であるなど、思いも及びません。 
 
 宇宙の創生から人間の誕生まで、たった6日なんてナンセンスと、片付けるのは簡単です。ビッグバンだとか、膨張し続ける宇宙だとか、さまざまな化学物質だとか法則だとか、反論するための知的知識の道具は、星の数ほどあるのです。これらは、一見説得力がありますし、たいていの人は膨大な専門的知的知識にはついていけないから、そっちの方が「理屈に合う」ような気がします。


 天地創造の物語は、とても平易なことばで書かれています。

 神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」
 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。
 神は大空を天と名づけられた。夕べがあり、朝があった。第二日。(創世記1章3節~5節)

 子供でもわかる語彙で、子供でもわかる具体的な説明。
 でも、この単純さは、「稚拙」と読み替えてしまうことができます。3500年も昔の人間の考えたことだ。科学のカの字も知らなかった人間が考えだしたことだ。彼らに何がわかるだろう。まともな、天体望遠鏡も、電波望遠鏡もなかったろう。第一、まだ、存在もしなかった人間に、どうして宇宙の始りがわかる? 
 
 こうして、聖書の著者が神であること、創造の主人公が神であること、神が目の前に聖書の鍵穴に差し込む鍵を置いて下さっていることは、あえて見落としてしまうのです。
 
 土地のちりで作った人間の鼻から息を吹き込むと、生きたものになった・・・。
 これは、とてもこわい話です。主語が神でなければ、この文章はナンセンスではないでしょうか。神以外のだれが、ちりから形造ったものに、「いのちの息」を吹き込むことができるでしょう。
 そこで人は生きものとなった。のです。

 生きていて死んだ者が生き返ったのではなくて、ちりが生き物になったのです。


  ※筆者が聖書通読エッセイを書き始めて五日目の記事の再録です。