ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

救われる方法としての断食

2020年06月06日 | 聖書

 「失礼ですが、さとうさんは、断食とか、なにか、しているんですか」
 教会で、大勢の人たちとお昼を食べているときに尋ねられた。ふだん、めったにお話しすることのないTさんですから、ちょっと遠慮のある切り出し方だった。
 私が、細いので――彼女よりは――、食事のことを聞かれたのかと思ったのですが、 彼女は、真顔で、「断食とかすると、信仰の修行になるという方もいますよね」

 正直に言って、私は、断食についてあまり考えたこともないのです。
 まだ、求道者(教会用語で聖書の学びをしている未信者のこと)のとき、先輩のクリスチャン女性が、言われたのです。
 「キリスト教は楽なのよ。断食や滝に打たれるような修行をしなくてもいいんですよ」

 何しろ楽に流れる性質ですから、それで、ちょっと敷居が低くなった感じがしたのです。でも、是が非でも信仰を持ちたいと思っていたわけではないので、「それは、どういう意味ですか」とも、聞かなかったのです。
 ただ、クリスチャンになるなら――そうはいっても、これまでの自分を改めなければいけないのではないかしらと、漠然と思っていました。なんとなく清らかな尼僧のようなイメージです。
 規則正しい生活、奉仕の生活、沈黙、従順――映画「尼僧物語」で、主人公ガブリエル=シスター・ルーク(オードリー・ヘップバーン)が、尼僧を志願して修道院で、厳しい戒律生活に入っていく場面を思い起こしていたのです。

 名画なのでご存知の方も多いと思いますが、息詰まるようなストイックな生活の中で、いつも静かに葛藤を秘めて「神に仕える尼僧ルーク」のイメージは、若くて、世の中のきらきらしたものに幻惑されがちだった私には、なんだか、他人事でした。
 父親を殺したナチへの抵抗運動に身を投じる決意をして、結局、還俗してしまうガブリエルに、むしろ共感したのです。
 映画は、神の無力の証明、キリスト教への批判にも見えました。事実、当時、そのような批評がむしろ、多かったと思います。

        

 自分が、キリスト教信仰を持ち、聖書を読む中で、改めてこの映画を見て、気づかされています。
 あの映画は、そもそも、神の真意は、「敵に抵抗することではない」 「右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイの福音書5章39節)だと、語っていたのです。

 そんなことはできない、というのもまた自然です。
 場合によっては、被害の状況によっては、もちろん、「左の頬」を向けるかもしれません。でも、いかなる場合も、いのちを失ってもそれができる人はまれです。

  では、神は、私たちに無理難題を求めていおられるのか。そうすれば天国へ行けると、約束しておられるのかと言えば、全く違います。
  新約聖書に書かれている、山上の説教(マタイの福音書5章1節~49節)にあるような厳しさは、人に押し付けられているものではなく、神の基準の高さを示しているといわれています。

  神の基準にとうてい到達しえない人間のために、その罪の代価を購うために、キリストは十字架上で死なれた、というのが、私たちがキリストを信じる理由です。
  そうして、キリストの十字架を信じ切るとき、私たちは「救われ」、「天国(神の国)」に入るのです。

 「尼僧物語」は、ですから、還俗したガブリエルが、信仰から脱落した物語ではないのです。
 神は、修道女生活を捨て、レジスタンス運動に身を投じたガブリエルを悲しまれるかもしれないけれど、そのような人間の限界を、神は贖ってくださるのです。
 右の頬を叩かれたとき、相手を叩きかえす自分の罪を自覚し、十字架を握りしめて、祈り続けることこそ、重要なのです。

 話を、断食に戻せば、聖書には、神に祈るときに断食をする話が、たくさん出てきます。
 断食は、神との交わり、悔い改めなどの表明として有効です。
 けれども救いそのものは、どれほど、肉体を打ちたたいて修行をしても、高額な金品を積んでも、倫理的道徳的にりっぱになっても、買い取ることは出来ないのです。
                        

  「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
  それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」
           (新約聖書・エペソ人への手紙2章8節)