ノアの小窓から

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妻を離別するものは、

2018年04月27日 | 聖書



  昨日の聖書箇所の続きです。
 「心にみだらな思いを抱いて女を見る者は、すでに姦淫したのです」は、難解でした。

  さて、次の言葉はいかがでしょう。


   
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 また、『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。(マタイの福音書5章31節)
 しかし、わたしはあなたがた言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。(32節)




 この箇所も難しいですね。今の価値観で考えれば何が問題なのかわからない。

 31節は、旧約の戒めに由来する言葉です。記されているのが申命記ですから、神の戒めというよりそういう慣習があったとみるべきかもしれません。

 妻を離別するときに、離婚状を与えたのは、彼女に「配偶者がいない」証明のためでした。それで、離婚された妻の再婚を、容易にするためでした。旧約聖書の世界は「男社会」です。女性は、現代の先進国のような意味では、独立した人格と認められていませんでした。女性は、結婚するまでは、父親に属し、結婚したら夫に属したのです。儒教の三従の教えのようなことは、旧約聖書のおきてのどこにも書かれていませんが、「だれの物でもない自由な立場」の女性はいなかったと見るべきなのでしょう。

 結婚相手がだれに属しているかは重大なことでした。結婚している女性と関係をもてば、それはたちまち「姦淫の罪」を犯すことです。姦淫の罪は石打(死刑)でしたから、いまで言う「不倫の果ての略奪婚」などありえません。


 旧約聖書のおきての下では、女性からは、離婚を申し立てることはできませんでしたが、男性は、何か気に入らない理由があれば妻を離別できたのです。女から見ると、まったく理不尽だと思いますが、日本の武家社会、また明治憲法下の男女関係も同じでした。歴史的に見て、世界中でこのような不公平がまかり通っていたのでしょう。そこで、離婚する男は、せめて「離婚状」を妻に渡したのです。妻が、再婚しやすくなるためです。これが、申命記24章1節に書かれていることで、モーセの律法といわれています。


 人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべきことを発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女に手渡し、彼女を家から去らせ、(以下略)


 古代イスラエル――当時のユダヤ社会では、このおきてを根拠に、夫からの離婚が案外自由に行われていたのかもしれません。

 イエスは、そこに、くさびを打たれたのです。
 妻を離別する者は、つまり妻が再婚しやすいように離婚状を与える者は、妻に姦淫を犯させると言うのです。
 さらに、離婚した女を娶る男も、姦淫を犯していることになる!!! これが32節の意味です。





 不貞や不倫は、現在ともに暮らしている配偶者や恋人との関係で考えます。別れた恋人や夫に義理立てして(昔の人はみさおを立てるなどと言いました)二度と再婚も恋愛もしない人は、感動的であっても、そうすべきだとは、だれも思いません。


 ところが、イエスは、ここで、男女の関係を、タテの時間軸でごらんになっているのです。
 たとえば、私さとうが、結婚し、離婚し、再婚した場合、それは姦淫だというのです。誰に対してでしょうか。多分、最初に結婚した相手に対して姦淫になるのでしょう。このような考えはもちろん、当時だけでなく、いまの時代の倫理にそぐわないのです。運悪く離婚するようなことになった女性が、もう一度、別の人と結婚生活をやり直すのはむしろ勧められることです。

 これをだれも、最初の夫に対する姦淫だなどとは思いません。しかも、その責任は、女性にあるのではなく、離別した夫が、再婚した元妻に「姦淫を犯させる」と、イエスは言われます。
 また、離別された女性と結婚する男も、姦淫を犯す。つまり、「離婚状」は無意味だと、イエスは仰せなのです。神の目には無効だということでしょう。




 これを理解するのは、神が結婚をどのように設定されたかを、創造の初めにもどって考えなければならないでしょう。


 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1章27節)


 つまり、男と女が一対であって、初めて、「神のかたち」を生きることができる者として造られたと書かれているのです。。
 神は、形をお持ちでない方です。その神にかたどられたとは、その霊的部分、愛や聖さ、正しさを受け継ぐ者としての存在です。
 ここで、イエスは神である方として、人に、「生涯同じ相手と連れ添うべきであると、表明しておられる」のではないでしょうか。それが、このような諭しとなっているのではないでしょうか。

  ほんとに、深くて、新しい教えに、驚くばかりです。