ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

ゆるゆる2

2017年09月23日 | 見る



    人間が年を取るのだということを、一番最初に意識したのは2・3歳のころの気がします。

    ある日、私は母に尋ねました。
    「おばあちゃんが、年を取るとどうなるの」
    母は答えました。
    「赤ちゃんにかえるのよ」

    ああ、そうか。と私は思い、同時に、頭の中に一つの絵が浮かびました。
    それは、赤ちゃんから、子どもになって、「お兄さん、お姉さん」、若いお父さん、お母さん、
    大きな子供がいるおじさん、おばさん。それから、おばあさんおじいさん。
    それらの人たちが、花輪のようになっていて、
    その、おじいさんおばあさんが、だんだん赤ちゃんになって行って、
    それから、赤ちゃんがまた、大きくなって子どもになる、そんな図でした。

    私の家には、その頃、祖父や祖母はいませんでしたし、(のちに同居するのですが)
    じつは、お年寄りが家で亡くなるのを見たことがなかったのです。
    
    ただ、どんなに幼くても、年齢によって見かけが違うことはわかります。
    当時は、着る物や態度は、世代によって、かなり厳格に異なっていました。

    でも、年を取って赤ちゃんになって、
    もう一度、生きなおすなんて素敵だと感じたものです。
    
    さて、もう少し大きくなった頃、
    母が近所の主婦とおしゃべりしていました。
    「この頃、おじいちゃんが無理ばっかり言いはるの(関西弁で「おっしゃるの」の意味)」
    「そう。年を取ると、だんだん赤ちゃんにかえっていくのよ」

    そのとき、「ああ、そういうことか」と私は納得しました。三世代同居があたりまえで、
    お年寄りの最後は、圧倒的に家庭で、お嫁さんか奥さんが看取った時代ですから、
    介護の苦労が世間話のように、よく語られていたのです。

         

    老いて「赤ちゃんにかえっていく」状態を、今日では、「認知症」と言います。
    少し前。までは、「痴呆症」とか、「ボケ」とか、「恍惚の人」とかいうのもありました。
    同じことを呼ぶにも、言い方でずいぶん印象が変わると思われませんか。

    たしかに、「赤ちゃんにかえっていく」のも、すんなり受けいれられませんが、
    「認知症」は、全く否定的な響きです。

    たとえ、からだが少しぐらい弱ってきても、何かの病気があっても、頭だけはしっかりとしていて、
    「認知機能だけは」若い時と同じでいて、
    判断力と記憶力がたしかなら、「人格がある」みたいな感じですね。
    人格があるなら、尊厳に値するし、人間はそもそも尊厳に値する存在なのだから、
    断固、認知症は退けなければならない。

    そのための、生活スタイルは? 運動は? 薬は? そのための栄養は?
    という観点から、毎日毎日語られた「敬老週間」

    でも、でも、でも、

    お肉を食べるといいとか、青魚だとか、ヨーグルトがいいとか、一日三食の正しい食事とか、
    体重と血圧の管理とか、
    
    「赤ちゃんにかえっていく人」に、たくさんの管理メニューを用意して、なんだか、
    「赤ちゃんにかえらせてもらえない」お年寄りって、幸福なのかなあと思ってしまうのです。

    赤ちゃんは、最初、無条件の愛に包まれて世話を受けています。
    人間も、どんどん年を取って行ったなら、
    気おくれなく老いることができて、あれこれ言われず、
    無条件に愛ある世話を受けて死にたいのではないかしら。

    もっとも、これが、むずかしいですね。何しろ、超高齢化社会では、
    赤ちゃんがとても多くなることは事実で、

    孫の孫の孫まで、高齢者になったら、

    だれが、お母さんお嫁さんか、わからないかもしれないから。