人間が年を取るのだということを、一番最初に意識したのは2・3歳のころの気がします。
ある日、私は母に尋ねました。
「おばあちゃんが、年を取るとどうなるの」
母は答えました。
「赤ちゃんにかえるのよ」
ああ、そうか。と私は思い、同時に、頭の中に一つの絵が浮かびました。
それは、赤ちゃんから、子どもになって、「お兄さん、お姉さん」、若いお父さん、お母さん、
大きな子供がいるおじさん、おばさん。それから、おばあさんおじいさん。
それらの人たちが、花輪のようになっていて、
その、おじいさんおばあさんが、だんだん赤ちゃんになって行って、
それから、赤ちゃんがまた、大きくなって子どもになる、そんな図でした。
私の家には、その頃、祖父や祖母はいませんでしたし、(のちに同居するのですが)
じつは、お年寄りが家で亡くなるのを見たことがなかったのです。
ただ、どんなに幼くても、年齢によって見かけが違うことはわかります。
当時は、着る物や態度は、世代によって、かなり厳格に異なっていました。
でも、年を取って赤ちゃんになって、
もう一度、生きなおすなんて素敵だと感じたものです。
さて、もう少し大きくなった頃、
母が近所の主婦とおしゃべりしていました。
「この頃、おじいちゃんが無理ばっかり言いはるの(関西弁で「おっしゃるの」の意味)」
「そう。年を取ると、だんだん赤ちゃんにかえっていくのよ」
そのとき、「ああ、そういうことか」と私は納得しました。三世代同居があたりまえで、
お年寄りの最後は、圧倒的に家庭で、お嫁さんか奥さんが看取った時代ですから、
介護の苦労が世間話のように、よく語られていたのです。
★ ★ ★★
老いて「赤ちゃんにかえっていく」状態を、今日では、「認知症」と言います。
少し前。までは、「痴呆症」とか、「ボケ」とか、「恍惚の人」とかいうのもありました。
同じことを呼ぶにも、言い方でずいぶん印象が変わると思われませんか。
たしかに、「赤ちゃんにかえっていく」のも、すんなり受けいれられませんが、
「認知症」は、全く否定的な響きです。
たとえ、からだが少しぐらい弱ってきても、何かの病気があっても、頭だけはしっかりとしていて、
「認知機能だけは」若い時と同じでいて、
判断力と記憶力がたしかなら、「人格がある」みたいな感じですね。
人格があるなら、尊厳に値するし、人間はそもそも尊厳に値する存在なのだから、
断固、認知症は退けなければならない。
そのための、生活スタイルは? 運動は? 薬は? そのための栄養は?
という観点から、毎日毎日語られた「敬老週間」
でも、でも、でも、
お肉を食べるといいとか、青魚だとか、ヨーグルトがいいとか、一日三食の正しい食事とか、
体重と血圧の管理とか、
「赤ちゃんにかえっていく人」に、たくさんの管理メニューを用意して、なんだか、
「赤ちゃんにかえらせてもらえない」お年寄りって、幸福なのかなあと思ってしまうのです。
赤ちゃんは、最初、無条件の愛に包まれて世話を受けています。
人間も、どんどん年を取って行ったなら、
気おくれなく老いることができて、あれこれ言われず、
無条件に愛ある世話を受けて死にたいのではないかしら。
もっとも、これが、むずかしいですね。何しろ、超高齢化社会では、
赤ちゃんがとても多くなることは事実で、
孫の孫の孫まで、高齢者になったら、
だれが、お母さんお嫁さんか、わからないかもしれないから。