ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

ダビデの心

2014年05月22日 | 聖書


  


                                                      


 あるテレビ番組で、顔を整形手術して、すっかり変えてしまったという青年が登場していました。、
 まだ20歳をくらいの人だったと思いますが、何度もの整形手術に何千万円を注ぎ込んだとうれしそうに話していました。その費用は、年上の女の人が出してくれたそうです。
 その場にいたゲストたちに、「整形前の顔のほうが魅力的じゃない」とか、けっこう反発も受けていましたが、本人は、自分の決断と実行を披露できることが誇らしげでした。テレビに出て、昔、自分をいじめたクラスメートに観てもらい、彼らを見返すのだとも話していました。



 私は、美容整形について何か意見を述べるつもりはありません。
 顔かたちを異常に気にする心理について、なにか言おうとも思いません。

 平凡な市民仲間である私の知り合いにも、わずかな顔のシミを気にして除去した人、イボを除いた人、目を二重にした人、鼻を高くした人などがいるのですから、相当それは普及しているのでしょう。
 形成外科がとても進歩したので、いまでは、顔に「あざ」のある人やこぶのある人も見なくなりました。
 これらは、間違いなく人を救っていると思います。
 そうして、自分だって、場合によっては、整形手術を受けたかもしれないと思います。


 顔をすっかり作り変えたその青年を、私が記憶にとどめたのは、彼の言葉でした。
 彼は、「理想の顔はダビデだ」と言ったのです。



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 ダビデという名の、有名タレントがいるかどうか知りませんが、その時、ダビデとはミケランジェロのダビデ像のことのようでした。

 石膏になって美術室に陳列されているダビデ像、レプリカのダビデ像など、ダビデ像は氾濫しているので、見たことがない人の方が少ないのではと思います。鼻筋の通ったギリシャ彫刻風のその顔を、高校の美術室でいつも見ていた私は、あまりに日本人離れした顔にただ驚いたものです。

 筋骨たくましい肢体、目は何かをじっと見つめています。
 ダビデが敵の大男ゴリアテと戦うために石を投げようとしている瞬間です。

 しかし、その場面の前後関係、その場面の緊張の本当の意味、この場面が、聖書の物語の中でも「もっとも美しい場面」であることなどを、「知った」のははるかに後年のことです。

 
 なぜ、美しいのでしょう。
 ダビデが、ミケランジェロの彫刻のような外貌だったからでしょうか。
 そんなはずはありません。紀元前1千年のダビデの姿は、だれにもわからないのです。
 


 
 ダビデ像は、まさに、ダビデの「心」が、凝縮された一瞬を語っています。


 ミケランジェロは、ダビデの心を、その美意識とテクニックの限りを尽くして、インスピレーションを恃んで具象化したのです。


 その青年がダビデに憧れるなら、せめてミケランジェロのダビデ像の元になった聖書のその場面を読んでほしいと思いました。
 
 
 戦でのなんの戦歴もない一介の羊飼いの少年ダビデ(たぶん17歳くらい)と、外国にまでその名がとどろいている百戦練磨の大男の戦士ゴリヤテが対決する場面です。

  旧約聖書・Ⅰサムエル記17章です。全部読んでも三十分はかからない箇所です。 
 
  

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ダビデが選ばれたとき

2014年05月21日 | 聖書



  彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、
  「確かに、主(しゅ=神)に油をそそがれる者だ」と思った。
  しかし、主はサムエルに仰せられた。
  「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。
  人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが主は心を見る。」(旧約聖書・Ⅰサムエル記16章6節)




  
 紀元前1千年ごろの古代イスラエルは、大祭司が神にお伺いを立てて国政を行う神聖政治国家でした。
 しかし、文明の十字路と呼ばれるカナンに位置するイスラエルは、弱小で、つねに外国や異民族の脅威にさらされていました。
 平和なときは緩やかな部族連合社会でイスラエル十二部族が協力し、危急にさいしては士師を立てて国内をまとめ、外敵と対峙していました。
 その時代の大祭司で士師であったサムエルは、大変力のある預言者でもあって、神の言葉を聞くことができ、国をよく治めていました。
 ところが、彼の息子たちは不肖の息子でわいろを取り、さばきを曲げ、その結果、外国に侵略され、民の不満は高まり、民は、サムエルに「自分たちも、外国のように武力で戦うことのできる王を立ててほしい」と要望します。

 サムエルはそのような考えを気に入らなかったのですが、主(しゅ)にお伺いすると、意外にも「民の要求を聞くように」とのお答えでした。

 サムエルは、主のお命じになるまま、サウルという青年を見出し、彼に油を注ぎます。(祭司や王に任ずるしるし) サウルは人間的には、好青年であったようですが、前例のない王の地位に就き迷いが多く、やがてたびたび過ちを犯すようになります。

 悲しむサムエルに、主は次の王を選ぶように促されるのです。
 

 主がお示しになったのは、ベツレヘム人でエッサイという人の息子でした。
 サムエルは、エッサイの家を訪れます。エッサイは、八人の息子のうち、末っ子のダビデを除く七人を集めて待っていました。

 サムエルの前を、長男のエリアブから順番に進ませることになりました。

 上の聖書箇所は、その時、サムエルがエリアブを見て、「彼だ」と思った場面です。

 エリアブは、容貌が美しく、背が高く、多分、王に選ばれてもよいようなオーラさえ放っていたのでしょう。
 ですが、神は、彼を「しりぞけ」られたのです。

 人はうわべを見るが主は心を見る。は、私の大好きなことばです。



 
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  七人の息子たち全員がサムエルの前を通ったのですが、主はことごとく彼らを退けられました。


  サムエルはエッサイに言った。「子供たちはこれで全部ですか。」 エッサイは答えた。
  「まだ、末の子が残っています。あれは今、ひつじの番をしています。」
  サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れてきなさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」」
  エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。
  その子は血色の好い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。
  主は仰せられた。「さあ。この者に油をそそげ。この者がそれだ。」
  サムエルは油の角(つの)を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。
                                     (Ⅰサムエル記16章11節~13節)
  


 ダビデは八人兄弟の末っ子で、大切な席にも呼ばれていないのですから、家族からあまり重んじられていなかったのでしょう。
 ところが、神様は、このダビデをイスラエルの王としてお選びになったのです。

 もちろん、ダビデも美しかったと聖書は記します。
 エッサイの息子たちは、いまでいえばイケメンぞろいだったようです。
 ですから、まさに、ダビデと兄たちを区別するところは、うわべではなく、心だったと言えます。 
 
 




                            ★聖書箇所は、新改訳聖書より引用しています。  

  

    

  
  
  
     

  

  

柔らかな答え

2014年05月19日 | 日記





       柔らかな答えは憤りを静める。
       しかし、激しいことばは怒りを引き起こす。

       知恵のある者の舌は知識をよく用い、
       愚かな者の口は愚かさを吐き出す。

       主(しゅ)の御目(おんめ)はどこにでもあり、
       悪人と善人を見張っている。  (旧約聖書・箴言15章1節~3節)



         人と会ったあと、
         電話で話したあと、
         誰かに質問をしなければならないとき、
         年下の人に頼みごとやアドバイスをするとき、

         柔らかな言葉づかいで話せたかしらと、気になるときがあります。
         自分の声や言葉遣いや雰囲気は、じつは、
         自分が一番わかっていないような・・。











         
  


目に青葉

2014年05月16日 | 歌う




            目に青葉 そうめん光る 昼餉かな



         じっとしていても、額に汗を感じる季節になりました。
       食欲も少し減退してくるのです。

       でも、そうめんならいただきましょう。
       淡いだし汁とネギとわさびだけでいいのです。

       ちょっと塗りのはげたちゃぶ台があると絵になります。、
       
       座布団もなしです。素足で足の親指をきちんと重ねて、正座しなければなりません。

       よっ、しょうわ!と、声がかかりそうですね。


 



             一切れのかわいたパンがあって、
             平和であるのは、
             ごちそうと争いに満ちた家にまさる。  (旧約聖書・箴言17章1節)