彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、
「確かに、主(しゅ=神)に油をそそがれる者だ」と思った。
しかし、主はサムエルに仰せられた。
「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。
人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが主は心を見る。」(旧約聖書・Ⅰサムエル記16章6節)
紀元前1千年ごろの古代イスラエルは、大祭司が神にお伺いを立てて国政を行う神聖政治国家でした。
しかし、文明の十字路と呼ばれるカナンに位置するイスラエルは、弱小で、つねに外国や異民族の脅威にさらされていました。
平和なときは緩やかな部族連合社会でイスラエル十二部族が協力し、危急にさいしては士師を立てて国内をまとめ、外敵と対峙していました。
その時代の大祭司で士師であったサムエルは、大変力のある預言者でもあって、神の言葉を聞くことができ、国をよく治めていました。
ところが、彼の息子たちは不肖の息子でわいろを取り、さばきを曲げ、その結果、外国に侵略され、民の不満は高まり、民は、サムエルに「自分たちも、外国のように武力で戦うことのできる王を立ててほしい」と要望します。
サムエルはそのような考えを気に入らなかったのですが、主(しゅ)にお伺いすると、意外にも「民の要求を聞くように」とのお答えでした。
サムエルは、主のお命じになるまま、サウルという青年を見出し、彼に油を注ぎます。(祭司や王に任ずるしるし) サウルは人間的には、好青年であったようですが、前例のない王の地位に就き迷いが多く、やがてたびたび過ちを犯すようになります。
悲しむサムエルに、主は次の王を選ぶように促されるのです。
主がお示しになったのは、ベツレヘム人でエッサイという人の息子でした。
サムエルは、エッサイの家を訪れます。エッサイは、八人の息子のうち、末っ子のダビデを除く七人を集めて待っていました。
サムエルの前を、長男のエリアブから順番に進ませることになりました。
上の聖書箇所は、その時、サムエルがエリアブを見て、「彼だ」と思った場面です。
エリアブは、容貌が美しく、背が高く、多分、王に選ばれてもよいようなオーラさえ放っていたのでしょう。
ですが、神は、彼を「しりぞけ」られたのです。
人はうわべを見るが主は心を見る。は、私の大好きなことばです。
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七人の息子たち全員がサムエルの前を通ったのですが、主はことごとく彼らを退けられました。
サムエルはエッサイに言った。「子供たちはこれで全部ですか。」 エッサイは答えた。
「まだ、末の子が残っています。あれは今、ひつじの番をしています。」
サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れてきなさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」」
エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。
その子は血色の好い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。
主は仰せられた。「さあ。この者に油をそそげ。この者がそれだ。」
サムエルは油の角(つの)を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。
(Ⅰサムエル記16章11節~13節)
ダビデは八人兄弟の末っ子で、大切な席にも呼ばれていないのですから、家族からあまり重んじられていなかったのでしょう。
ところが、神様は、このダビデをイスラエルの王としてお選びになったのです。
もちろん、ダビデも美しかったと聖書は記します。
エッサイの息子たちは、いまでいえばイケメンぞろいだったようです。
ですから、まさに、ダビデと兄たちを区別するところは、うわべではなく、心だったと言えます。
★聖書箇所は、新改訳聖書より引用しています。