ノアの小窓から

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神の国――キリストの教えの中心をやさしく語る(抜粋)3課・4

2017年03月27日 | 聖書





  神の国は神の支配を意味しているのですから、キリストは、
  今、この世界にいても(完全ではあり得ませんが)はいることができると説いておられます。
  キリスト者としての完成にほど遠いさとうですが、神の守りの中にいる喜びは体験しています。
  以下テキストの抜粋をお読みください。
  
  


神の国
             
第3課

神の国の到来



Ⅰ. 到来の宣言と現れ


Ⅰ.A. キリストの誕生

Ⅰ.B. キリストの働き

自然の世界 

霊の世界 

人間の世界


※※※ まとめ ※※※




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Ⅱ. 神の国の体験

  パウロというキリストの偉大な弟子は、「神の国は言葉ではなく力である」と言って、見事(みごと)に神の国の性質を表現しました。神の国は、気休めのための単なる美しい物語ではありません。
  精神 修養としての、哲学や宗教的教えでもありません。人間から見れば、現実の生活の中に起こる強烈(きょうれつ)な出来事です。天地を創造された神の側からすると、人間の世界に対する介入です。全能 の神が人間に干渉されるのです。少々の出来事で終わるはずが ありません。痛烈に、すばらしい体験です。


Ⅱ.A. 神との交わりの回復

  恋人は手を取り合いたくなります。握(にぎ)られた手が、恋人の手 であろうが大嫌いな人間の手であろうが、物理的感覚にはたいした違いはないはずです。ところが、一方では、雲の上を駆(か)けるような気持になり、他方ではむしずが走ります。となりに座ったのが愛する人なら、心がほんわか、「あったか~く」なり、赤の他人なら、何の感動もありません。人間の心の動きは微妙です。幸せと感じる感覚は説明がつきません。人間には、恋人や夫婦によってだけ埋(う)められる、心の空白があり、友人などの人間関係だけによって満たされる、心のすき間があります。これらのものは、仕事だとか、芸術だとか、スポーツ、あるいは金や名誉(めいよ)や地位で、かなりごまかしや引き伸ばしが利(き)きますが、完全に満足させることは不可能です。神が、人間というものを、そのようにお造りになったからです。

  同じように、霊的動物として造られた人間には、霊的な存在者である神との交わりだけでしか、満たすことができない心の部屋があるのです。
  これが満たされない限り、単なる動物的営(いとな)みである、食べる、寝る、遊ぶ、繁殖(はんしょく)するというようなこと、あるいは動物的営(いとな)みを少しばかり高度化し、複雑にしたに過ぎない、金、快楽、芸術、スポーツ、権力、地位、名誉(めいよ)、学問、さらには性、仕事、家庭など、あらゆるものをもっても、人間として、人間らしい満足を体験することができないのです。

  ですから、人間の歴史が始まって以来、人間の霊的部分を満足させようという試みである、宗教が絶えたことがありません。あるものはこの霊を祭り、他のものはあの霊と交わりを持ちます。しかし、本源的(ほんげんてき)な霊であられる神との交わりのみが、人間を満足させることができるのであって、他のどんな霊を持って来ても、代用にはなりません。

  神の国に入って最初に体験するのは、この、神との交わりの回復です。神との交わりの回復とは、はたしてどのような体験かということは、説明が不可能(ふかのう)です。恋の経験のない者に、恋する心がどんなものであるか、説明できないのと同じです。食べたことがない人に、熱帯の果物の味を分からせようとしても、おおよそ無理なのと同じです。何によっても味わうことができなかった、喜び、満足、平安、震(ふる)えるような感動(かんどう)、などと言っても月並(つきな)みです。ただ、この体験が、人間生活のあらゆる方面に大きな影響力となって、まるで、新品の人生を歩き出すような経験をさせるのです。



Ⅱ.B. 私たちの内に住んでくださる神の霊

  心に幸せが満ちあふれている人は、悪い事をしたいと思いません。それだけでも世の中は相当(そうとう)変わります。
  神は人間との交わりを回復して下さるだけではありません。私たちの内に住んでくださいます。もちろんこれは、物理的に人間が家に住むというのと、同じ意味(いみ)で住むというのではありません。宇宙(うちゅう)の造り主である大きな神が、人の内に住めるわけがないからです。

  また、神は「遍在(へんざい)」と言って、宇宙のあらゆるところに、満(み)ち満ちておられる方です。たとえば直径(ちょっけい)100メートルのすき間の無い鉄の玉を作って、この中には神はいないというのは愚(おろ)かなことです。神にとっては堅(かた)い鉄の玉も、スポンジよりスカスカな物体にすぎません。ですから、そういう意味では、すべての人間の内部にも、神は溢(あふ)れておられるのであって、ことさら、「内に住んでくださる」ことを強調する理由がありません。それでもあえて、「内に住む」という表現を用いたのは、神が回復して下さった交(まじ)わりの「親密さ」に注目させるためなのです。神が、嫌々(いやいや)ながら人間と交わりを回復するのではなく、喜んで、非常に暖かく、豊(ゆた)かな交わりに入ってくださるということです。

  この、神との親しい交わりは、当然、神の助けと守りを含(ふく)みます。それは、親が子を助け、守るようなものです。事実、神の国に入った者を、聖書は「神の子」という表現で呼び、神を「父」と呼ぶことができると教えているのです。「神の子」は、聖(きよ)い性質の神との交わりによって、神と同じ聖い性質を身に付け、罪を犯さなくなって行くと、教えられています。(Iヨハネ3:1-9) また私たちの内に住んでいてくださる方は、この世にいる悪魔と、その配下の悪霊どもより強いので、私たちは彼らに勝利することができるのであると、励(はげ)まされています。(Iヨハネ4:1-4、エペソ6:11-16)
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  神の国の体験は、憎(にく)しみ、嫉妬(しっと)、恨(うら)みといった、自分自身のみにくい性質に対する、勝利の体験であり、企業や政治の堕落、家庭の崩壊、性倫理の混乱、刹那的物質文明の腐敗などの、社会悪に対する勝利の体験となります。平たく言えば、このみにくい世界で正しく生きることができるようになって行くということです。
 さらには悪霊だの怨霊(おんりょう)だの死霊(しりょう)だの、また、守護霊、水子霊、先祖霊だのという霊のたたりや惑わしを恐れず、かえって、勝利の内に生きて行けることです。つきつめると、神の国の体験は、悪魔に対する勝利なのです。(ロ-マ8:31)




※※※ まとめ ※※※   神の国に入った者は、神の国独特の体験をします。それはまず、神との交わりの回復によってもたらされる、真に人間的な喜び、霊的動物である人間としての満足感、充足感です。さらに、神との交わりと保護(ほご)の中で、神の性質に似ていくという、人間性の内部の変化です。これによって、自己の醜さに勝利をし、社会の悪にも勝利をしていけるようになるのです。また神の保護は、この世の支配者である悪魔と、その配下である悪霊どもが、直接悪事を働くことを許しませんので、悪魔と悪霊どものただ中にあって、恐れずに生活できるのです。