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ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

宇宙の人間原理と創造主・ラジオ伝道者高原剛一郎牧師のお話

2018年04月11日 | 聖書


高原剛一郎牧師のメッセージの4回目です。
これは、「聖書と福音」というラジオ番組で語られています。
■ラジオ関西  毎週日曜 朝 7:45- 8:00 558Khz
■ラジオ福島  毎週日曜 朝 8:30- 8:45 1,458Khz

うまくお聞きになれない場合、ネットで文章を読むことができます。ほかに数人の伝道者が交代でメッセージをしています。楽しく軽く、真剣なお話を、ぜひお聞きください。



❀  ❀  ❀

17年8月6日

「宇宙の人間原理と創造主」


おはようございます、高原剛一郎です!


ずいぶん昔、朝日新聞に、明るい悩み相談室っというのがありました。そこに新潟県小千谷市の、16歳になる女子高生が相談事を投稿したのです。
「私はもう3年も悩んでいるのですが、人間は最後は死ぬのに、どうして一生懸命生きるのですか。ゴールに着いて何かいいことがあるわけでもないのに、どうして努力したり、恋をしたり、悩んだりするのですか。結局死んでしまうのに、生きることや、その間にすることに、どんな意味があるのでしょうか。友達や親に聞いても、誰も答えてくれません。」

これは人生についての根本的な問いだと思います。しかし、ほとんどの方は、明快な答えを持っていません。
わからないのです。どうしてわからないのでしょうか。人間の存在目的を、人間を出発点にして考えているからです。
私の友人に、ほとんど自力で別荘を建てた男がいます。プロではないけれど、プロ並みの仕事を何でもこなす人なんですね。
ところが彼の作った玄関扉には、下の方に高さ10㎝ほどの小さな扉が付いているではありませんか。
「何ですか、これは」と尋ねてみると、飼っている猫が出入りするための出入り口なんだそうです。私はそんなものが世の中にあるとは知らなかったので、びっくりしました。
しかし何のために存在しているかわからないものは、その作者に訊いたら、何のためのものかを説明してもらえるのです。


人間の存在の原因者がおられる

どうして人間の存在理由がわからないのでしょう。人間を存在させた神を認めないからです。
あなたを造り、あなたが生きていくために必要な地球を造り、そしてこの地球を命溢れる星にするために環境を整えておられる創造主を認めること、これが人生の目的を知る第一歩なのです。
聖書の中に次のような言葉があります。

天を創造した方、すなわち神。地を形造り、これを仕上げた方。すなわちこれを堅く立てた方、これを茫漠としたものに創造せず、人のすみかにこれを形造った方、まことにこの主が、こう仰せられる。『私が主である。他にはいない。』


過酷な宇宙環境

ところで宇宙の中で人が生きているということは、奇跡だということをご存じでしょうか。
先日「私を宇宙に連れてって」という本を読んで、私はそれを痛感いたしました。地球を飛び出して、ロシアのミールに長期滞在した宇宙飛行士たちは、狭くてうるさくて、あつくて汚い密閉空間で生活することになります。
しかし、その結果ユーリ・ロマネンコ宇宙飛行士は情緒不安定になり、アレキサンドル・ラベーキン宇宙飛行士はうつ病になって自殺を考えるようになります。宇宙船は快適とは言えないからです。

精神以前の問題として、食べ物の問題も深刻です。
宇宙船の限られた空間の中で、食料はできるだけ小さく、軽くなければなりません。それで圧縮された、歯磨きチューブみたいなものになってしまうのです。食の楽しみがなくなるとき、人間はちょっとのことでめげやすくなってしまうのです。

しかしそれ以上に大変なことは、食べたものを排泄することです。実はアポロ計画で使われた大便バッグは、透明のビニール袋でした。これをお尻にあてがってするのですが、宇宙飛行士のお尻の形状の平均的な曲線に合わせて作ったため、結果として誰のお尻にもフィットしないものができてしまったのです。
密着させるためのノリが体毛にくっついて、抜けてしまうのです。それでも何とか出したら、今度はバッグに殺菌剤を絞り入れて、封をして手で良くもむのです。そうしなと大腸菌がガスを発生させて、バッグはやがて破裂してしまうんです。
そして揉み方が十分でなかったために、実際破裂する事態が何回も起き、無重力空間をプカプカと大便がさまようようなことが起こり、宇宙船の中はパニックに襲われるということが続いたのです。
あまりの悪評に、トイレが作られるようになったのですが、凍った便が塵状になって舞ったり、ポップコーン状になって吹き上がったりする事故が起こります。
ちなみにスペースシャトルのトイレの開口部はたった10㎝です。適切な位置に肛門を持ってこられるように、肛門を写せるカメラを覗きながら、宇宙飛行士たちは排便のポジショニングの訓練をするんですね。


地球は見事に作られている

トイレだけではありません。宇宙遊泳でハイになって、宇宙船に戻りたくなくなった飛行士や、宇宙酔いで吐き気に悩まされたり、自分のあまりの体臭に苦しんだりします。実に宇宙船の中は壮絶な世界なのです。
こういう問題をひとつひとつ解決するために、各方面の専門家が世界中から集められ、人間そのものの弱さや特性が探求され、さまざまな技術を新たに開発して、居住空間の居心地を改善してきたんですね。
これらの知恵の結集なしに、人が忍耐できるような居住空間を宇宙の中に造り出すことは絶対にできなかったと、作者は断言しているのです。とするならば、この上もなく快適なこの地球という宇宙船は、人間を知り尽しておられる創造主によって見事に形造られたものだと言えるのではありませんか。


超絶なバランスで成立している宇宙

実はこの十年ほどの間で、物理学者たちが向き合い出しているテーマがあるのです。それは宇宙の人間原理です。
それは、宇宙な人間が存在できるように設計されているという考えです。つまり、人間が生きていくために宇宙があるという仮説で、1970年代にブランドン・カーターという学者が言い出すんです。
しかし、当初科学者の間では、大反発を浴びた異端的な考え方だったのです。しかし、今は違うんですね。
この10年の間に人間原理をめぐる風向きが、完全に変わりました。物理学者の多くの者達が、宇宙はなぜこのような宇宙なのか、を考えるようになったのです。本来、自然科学の世界では、「どのように」ということは問うても、「なぜ」ということは追及しません。しかし、今や最先端宇宙論や、物理学者は人間原理を無視できないのです。
例えば、地球にエネルギーを供給しつけている太陽は、水素の核融合をしています。
水素はヘリウムに変換するとき、水素の質量の1000分の7の割合で、エネルギーに代わるのですが、これが1000分の6に下がると変換できなくなり、宇宙は水素ばかりになってしまって、他は何も造り出すことがないのです。
逆に1000分の8に上がってしまうと、水素はあっという間に枯渇してしまうのです。超精密な調整された値の上に、この宇宙は成り立っているのです。このようなパラメーターは他に、40近くもあるというのです。
その40近くのパラメーターのたった一つの値が、ほんのわずか今より違っているだけで、宇宙は存在できなくなるというのです。


宇宙を作られた方が救い主として来られた

聖書はこう語っています。「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、人の住みかにこれを形造った方」がおられると。この神の存在は、目で見ることはできません。しかし、神が整えられた宇宙の構造を通して、充分に認められるのではありませんか。

ところで神がいる、ということを知るということは、第一歩です。この紛れもなく存在する神が、どんなご人格の方なのか、それを明らかにするために、神は人となってこの世に来られました。この方こそ、イエス・キリストです。
壮大な宇宙を指のわざで造られた方が、この世界に来てくださったのは、あなたと出会い、あなたを神のもとに引き戻し、神の目的にかなった人生に導きくためなのです。
どうぞキリストを通して、この宇宙の造り主なる創造主の神様を、あなたのたましいの親として出会ってください。心からおすすめします。










大切な君、ラジオ伝道者・高原剛一郎牧師のお話

2018年04月10日 | 聖書


2018.01.21

大切な君


おはようございます。高原剛一郎です!


作家の百田尚樹さんには、社会人になる息子さんがいるのですが、ある時、「僕は何故だか知らないけれど、名古屋と聞くと恐怖心がわいてくるんだ。」と言ったそうです。
息子さんは名古屋に住んだこともなければ、行ったこともない。名古屋でひどい目にあったことなど一度もないのに、この地名を聞くと無性に暗い気分になるというのです。

名古屋に行きたかった息子

しかし、父親である百田さんには思い当たることがありました。それは、息子さんが幼稚園に通っていた頃の話です。
その頃、百田さんはテレビの仕事で毎週名古屋に出張していたそうです。
その日の朝も、「じゃあ、名古屋に行ってくるわ」と言ったのですが、それを聞きつけた息子さんが「ボクも行く!」と言い出したのです。
幼稚園は飽きた、行きたくないという訳ですね。それより、お父さんが毎週行っている名古屋って何だか楽しそうだ。だから、自分もついて行くんだという訳です。
お母さんがダメだと言っても、「名古屋へついて行く!」と言って聞きません。

川を越えた先が名古屋

そこで、百田さんは、「分かった。お父さんと一緒に名古屋へ行こう。後ろからついてきなさい。」そう言って、近くを流れる淀川まで行ったそうです。
土手を下りると、背の高い葦が密集しています。幼稚園児の息子は必死に植物をかき分け、足元の悪い中、お父さんに食らいついていくのです。
すぐに汗だくで、靴は泥だらけ、手足は植物の鋭利な葉っぱで切り傷だらけです。
「お父さん、名古屋はまだなん?」
「うーん、もうすぐや。あの大きな川を越えたら向こう側が名古屋だ」
「どうやって川をわたるの?」
「泳ぐんや!」
その瞬間、息子さんは言ったそうです。「ボク、幼稚園にいく」くるりと向きを変えて家に戻りだしたんですね。

知らずうちにあるマイナスイメージ

この息子さんは、やがて成人し社会人となるにつれて、幼稚園時代のことをすっかり忘れています。
しかし、名古屋と聞くと潜在意識にある、あの辛い経験が引き起こした重い気持ちが浮かんでくるのです。
名古屋には何の罪もありません。ただ、名古屋の名前が悪用されたあの経験が、息子さんを名古屋嫌いにしてしまっているのです。

ところで、ある方は聖書とか、神とか、キリストと聞くと、「そんなの宗教だ。ナンセンスだ。そういう話は聞きたくない。」と拒絶反応を示されるのです。
しかも、一度も聖書を読んだことがなく、一回も教会に行ったこともなく、まだ聖書のメッセージを聞いたこともないのに拒否反応を示す方が時におられるのです。
それはおそらく、聖書に出会う前に、神とか、信仰とかいう言葉を悪用されて、マイナスのイメージを植え付けられてしまっているからかもしれません。
しかし、聖書の語るメッセージはこの世の宗教とは対極のメッセージなのです。


聖書=宗教だと思っていませんか?

ヨハネの福音書6章28,29節
聖書に次のような言葉があります。
すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

今日はここから2つのポイントでお話し致しましょう。

『たいせつなきみ』

第一に、ここで語られている神とは、私たちが作った神々ではなく、私たちを造られた方。この宇宙万物を造られた作者なる方のことです。人が作った神ではありません。人をお造りになった神のことです。この方を信頼することが、神のわざを行う第一歩となるのです。

私の大好きな絵本に『たいせつなきみ』という作品があります。それは、木彫りの小人たちの物語なんですね。
この人形たちの社会には一つ変なルールがありました。お互いに才能や美しさを認めると金色のシールを貼りつけるのです。
逆に失敗したり、見栄えが悪かったりすると灰色のシールを貼りつけるんです。
その人形社会にパンチネロという人形がいました。彼はどんなに頑張っても灰色シールばかり貼られて、すっかり自信をなくしているのです。

作者がどう思うかが大切

そんなある日のこと、金色のシールも灰色のシールも全然ついていない、スッキリした少女ルシアと出会うのです。
「ああ、この子のようになりたい。」と切望するパンチネロにルシアは言うのです。「毎日、エリに会いに行くといいわ!」
エリとはこの木彫り人形を作った彫刻家です。作者であるエリはパンチネロに語りかけるのです。
「お前は気にすることはないよ。金色や灰色のシールを貼りつけているのは一体誰だか考えてごらん。お前と同じ人形たちじゃないか。
仲間同士がどうレッテル貼りしようがかまやしない。パンチネロや、大切なことはこのわたしがどう思うかなのだ。
わたしはお前のことをかけがえのない宝物だと思っているんだよ。」

パンチネロのシールがはがれる

更にこう言うのです。
「シールはお前がくっつくように仕向けているからくっついてしまうんだよ。」
「どういう意味ですか?」
「お前がシールを気にしているからくっつくんだよ。わたしの愛を信じれば信じるほど、シールなんてどうでも良くなってくるはずだ。」
パンチネロはその意味がピンときませんでしたが、やがて、エリは本気でぼくのことを大切に思ってくれていると少し理解するようになりました。
その瞬間、灰色シールが一枚ポロっとはがれて地面に落ちるのです。


圧倒的な存在の前

ところで、私は寒いのが苦手です。しかし、夜空だけは冬の方がいいですね。それは、よく星が見えるからです。
寒い夜空ほど沢山の星々がきれいに見えるような気がします。
しかし、どんなに空気の澄んだ森や山に行っても、昼間には星が見えません。
それは、昼には星が出ていないからではなく、太陽の明るさによってかき消されてしまっているからです。
太陽の圧倒的な明るさの前では星々の弱々しい輝きはみな消えてしまうのです。
どうして、人からの評価を過大に気にしたり、それによって自分を損ねたりしてしまうのでしょう。
何があってもあなたへの愛を失っていない神様から離れ去っているからではありませんか。
あなたの作者であるエリの声を聞かないからではありませんか。神なき世界観の中で生きるからではありませんか。
この神様との断絶関係が、私たちに闇を呼び込ませている原因なのです。


川にはまった犬

第二に、神を信じるだけではなく、神が遣わした者を信じることが何よりも神があなたに望んでおられることなのです。
神が遣わした者とはイエス・キリストのことです。キリストこそあなたを神の前に帰らせるために、天からこの世に下って来られた救い主です。
私は先日、氷結する川を横切る途中ではまってしまった犬の動画を見たのです。
この犬は前足を氷にかけていますが、自力で這い上がることはできません。必死にもがくのですがどんどん体温が下がっていくのです。
また、犬の足は氷を歩くようにはできていないんですね。踏ん張ろうにもツルツル滑って体力を無駄にするばかりです。
そこに、消防のレスキュー隊が到着します。氷にうつ伏せになりながら、犬に近づきますが隊員は犬を掴んだ瞬間、氷が割れて犬もろとも川に落ちてしまうのです。
しかし、隊員の腰にはロープが結わえられていました。岸辺のチームが懸命にそのロープを引っ張って、この犬と隊員を救い上げたのです。


自力で戻れない、人のためのキリスト

ところで、どうして隊員がわざわざ犬のところへ出向かわなければならなかったのでしょう。
犬が自力で這い上がることができないからです。キリストはどうして天から来られたのでしょう。人は自力で神の元に帰る力がないからです。
人にはできないことを代わりに成し遂げるためにキリストが来てくださいました。
キリストを受け入れることで、あなたは罪と死の中から救われるのです。
どうぞ、イエス・キリストを心の中に受け入れてください。心からお勧めします。




今日のみことば

すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」6:29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
(ヨハネ6:28-29)











至高の作者と無限の愛、高原剛一郎牧師のお話2

2018年04月09日 | 聖書






2018.04.01

至高の作者と無限の愛
             伝道者:高原剛一郎

おはようございます。高原剛一郎です。

私の子供の頃、藤子不二雄のアニメに『怪物くん』という作品がありました。
怪物ランドの王子が三人のお供を連れて人間界で活躍する物語です。
この三人のお供の中に一人だけ「フンガァー」としか言わない継ぎ接ぎだらけの巨人がいました。
その名もフランケンです。これはホラー映画の元祖『フランケンシュタイン』からとったものです。
ところで、私は随分昔にこのフランケンシュタインの小説を読んで驚いたのです。
実は、フランケンシュタインというのは怪物の名前ではなく怪物を作った博士の名前なのです。
博士は少年時代から科学が大好きで、いつの日か死体からパーツを集めて人造人間を作りたいと考えていました。
そして、博士号を取った後、墓場に行って泥まみれになりながら死体を継ぎ接ぎして2メートル50センチの体を作り、そこに命を吹き込むことに成功するのです。

作者は愛せなくなった

しかし、予想もしないことが起こります。
それは博士自身が自分の作ったものを愛することができなくなったということです。
自分で作っておきながらあまりの醜さに耐えきれず、実験室に怪物を放置したまま逃げ出してしまうのです。
どうして怪物に名前がないんでしょう。作者から名前を付けてもらえなかったからです。
怪物は自分を愛してくれなかった作者に復讐するために次々と殺人を犯し、遂に博士を殺し号泣するのです。
映画ではグロテスクな外見ばかりが強調されていますが、小説では怪物の繊細な内心がヒリヒリするタッチで描かれていました。



フランケンシュタインの作家

ところでこの小説を書いたのはメアリー・シェリーという人です。つまり女性なのです。
しかも、書いた当時19歳でした。
そんなに年若くしてどうしてこんなに人間の孤独な心や葛藤を描くことができたんでしょう。自分の生い立ちを小説に焼き直して書いていたからです。
彼女は誕生して10日後にお母さんを亡くしてしまいます。産後の肥立ちが悪かったのです。
それで成長するに従い、自分が生まれなければお母さんは死ななかった、自分が母を殺したと考えるようになるのです。
お父さんは後日再婚します。しかし、この新しいお母さんが典型的な継子いじめを繰り返し彼女は大変寂しい少女時代を過ごすのです。
愛に飢えた彼女は16歳で妻子ある男性と駆け落ちし、翌年17歳で長女を産みますが程なくその子は死んでしまうのです。

苦しみの中での著作
次の年には姉が自殺し、18歳の時には不倫相手の妻が投身自殺をします。
彼女は愛されないことに苦しみ、愛してはならない人を愛して苦しみ、自分の蒔いた種で他の人を苦しみにあわせ、いったい何のために生まれてきたんだろう、人間存在とはいったい何なんだろうともがく中でこの作品を書いていったのです。
この小説には本物の愛で愛されたいという魂の絶叫が響いているように思うのです。

神のことは神のことばで考える

さて、聖書の中に次のような神の言葉があります。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

もし、人生の出来事や自分の実感から神をイメージすると神は無慈悲で冷血で厳しい存在でしかないと思い込んでしまうことでしょう。
しかし、神様のことは神の言葉で考えるべきなのです。
神とはどんな方でしょう。3つのポイントでお話しします。

神に似せられている

第1に、あなたのことを尊い存在だと評価してくださる方です。
最も尊い方である神の本質に似せて造られているという点であなたは尊い人なのです。
人間には他の動物と違って創造性がありますね。道具を作ったり、芸術を楽しんだり、何か創意工夫して生み出していくという能力があります。
人が創造性に富んでいるのは創造主の本質に似せて造られているからです。
また、人は自分が死んだ後のことを考えます。絶対に手の届かない世界の果てのことや宇宙の果てについて、また、時間ということについて考えるのです。
つまり、永遠ということを考えずにはおれない存在なのです。それは、永遠の存在である神のかたちに似せて造られているからです。
また、あらゆる生き物の中でただ人間だけが信頼したり、祈ったり、信じたり、宗教的感覚を持つ存在なんです。
それは、信頼関係の中に生きる神のかたちに似せて造られているからです。

愛の対象として造られた

第2に、あなたを愛の対象として造られた方です。
神様はあなたを愛しています。フランケンシュタイン博士は自分が作り出したものの醜さに耐えきれずに顔を背けて放り出してしまいました。
しかし、あなたをお造りになった神はたとえあなたがどんなに醜いことをしでかしたとしても、あなたに対する愛をやめない、いや、やめられない方なのです。
人は自分でも軽蔑してしまうようなことをやってしまう時、もはや愛される資格などないと思うものです。
しかし、神はあなたが愛されるにふさわしいから愛するのではありません。神のご性質が愛なので愛するのです。
そして、あなたを愛の対象としてお造りになったので愛されるのです。

神にとって高価であるとは

第3に、あなたを高価なものとご覧になる神です。
ところで、この世界の価値あるものは全部神が無から創造されたものです。
太陽エネルギーも空気も希少金属もすべて神が創造なさったものです。
何の苦もなく価値あるものをいくらでも造りだすことができる神にとって高価であるとはいったいどんなものなのでしょう。
それは、ご自分のひとり子の神イエス・キリストです。
神はあなたの罪を赦すために神にとってもかけがえのないイエス・キリストを犠牲として払ってくださったのです。

神は正義である方

神という方は確かにあなたを愛する方です。しかし、同時に正義の神でもあられるのです。
正義とは罪を憎む性質です。悪を嫌う性質です。不正に憤る性質なのです。
神はあなたの罪に対しては怒っておられる方です。
この罪に対する怒りを完全に晴らした上で、しかも罪人に対する愛を完全に表すために神はご自分のひとり子イエス・キリストをあなたの身代わりとされました。
罪人に罪の責任を求めるかわりに、全く罪のないイエス・キリストに罪の責任を問うて裁きを振りおろしてくださったのです。
神がそうされた理由はあなたを愛しておられるからです。
キリストはあなたの罪を完全に帳消しにし、死後三日目によみがえられました。

無かったことにする

昔、会津藩のお殿様に加藤嘉明という方がいました。
この家には天塩皿という10枚1組のお皿の家宝があったのです。
ところがある日のこと、この皿の1枚を側近の若者が不注意で割ってしまうのです。
価値があるものを欠けさせてしまったんですね。
側近の若者は打首を覚悟したといいます。
しかし、嘉明公は意外な行動に出たのです。残った9枚の皿も若者の前で全部打ち砕いてしまったのです。
やけを起こしたのではありません。残りの皿をそのままにしておいたらこの皿が使われる度に失敗を思い出し、また、周りの者も白い目で見ることでしょう。
ならば一層の事すべて無くしてしまっておいた方が良い。そうすれば、そんな皿があったということすらもいつの間にか忘れてしまうだろうと言われたのです。
神はキリストの犠牲によってあなたの罪を完璧に赦してくださいました。それによって、罪の記憶は跡形もなくひとかけらも残らず完全に忘れ去ってくださったのです。
そんなことが可能になったのは、神が高価で尊いイエス・キリストをあなたの代価として支払ってくださったからです。
「わたしの目にあなたは高価で尊い」と呼びかけておられるこの真の神様にどうぞキリストを信じて立ち返ってください。心からお勧めしたいと思います。



今日のみことば

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
(イザヤ43:4)







死に打ち勝つ信仰、高原剛一郎牧師のお話

2018年04月08日 | 聖書


「聖書と福音」というラジオ番組をご存知ですか。
 関西と福島にあるラジオ局です。
    ■ラジオ関西 毎週日曜 朝 7:45-8:00 558Khz
    ■ラジオ福島 毎週日曜 朝 8:30-8:45 1,458Khz

 ネットでも、FBでも見ることができます。
 わかりやすくて、温かいお話満載のこのサイトを、最近は忙しくてあまり開かなかったのですが、
 今日は、一つご紹介させてください。
 メッセンジャーは高原剛一郎牧師です。 
このメッセージは、2012年のものです。今も放送されていますので、明日は18年4月の放送分を掲載します。


   ❀ ❀ ❀



「死に打ち勝つ信仰」

 おはようございます。高原剛一郎です!

 さて、今年2012年は、アメリカの大統領選挙の年です。今の大統領はオバマさんですね。そして、この、オバマ大統領が生まれた年に大統領に就任した人物にジョン・F・ケネディという人がいました。実は、彼のお父さんは大変な野心家であったのです。四人いる息子の誰かをどうしても大統領にしたいと常々思っていました。しかし長男は、飛行機を操縦中空中爆発で亡くなります。


 次男のジョン・F・ケネディは史上最年少で大統領になりますが、ダラスというところで暗殺されてしまいます。三男のロバート・ケネディは、その五年後大統領予備選挙の最中に暗殺されてしまうのです。末っ子の、エドワード・ケネディは、脳に得体のしれない腫瘍ができて亡くなります。ジョン・F・ケネディの息子は、飛行機が墜落してなくなり、ロバート・ケネディの息子はスキーで樹木に激突して亡くなるんです。彼の一族は十三人が変死を遂げているんですね。それで、アメリカでは、悲劇のケネディ家とか、ケネディ家の呪いなどという人もいるほどです。
 ところで、このケネディ家という華麗なる一族と、わが高原家には一つの共通点があるのです。実は、私の一族も先祖はみんな亡くなってしまったのです。わが家系は、先祖代々全員、最後は死んでしまったのです。もし、一族が死んだことをもって、呪いの家系というなら、人類の中で呪われていない家系など、いないのではないのでしょうか。


悲劇が悲劇で終わらない家族

 ところでもう一つのファミリーを私は紹介したいのです。ケネディ家以上に、死に憑りつかれたかのように見える人と、その家族です。その人の名は、クラシック音楽の大家、ヨハン・セバスティアン・バッハという人です。彼のお父さんの時代、ドイツでは、三十年戦争という争いがありました。ドイツの国内で、ドイツ人同士が、三十年間戦争したんです。三十年というのは、太平洋戦争の七倍です。その間、国中に戦死者があふれかえりました。国土が荒らされ、ペストという伝染病が蔓延し、なんと国の人口が、五分の一になるのです。バッハの家族も例外では、ありませんでした。バッハが、九歳の時、お母さんが亡くなり、十歳の時には、お父さんを亡くします。八人兄弟の末っ子だった彼は、上にいた四人の兄弟たちを亡くします。十三年間連れ添った、妻は彼を残して、他界します。再婚した妻と先妻との間に生まれた二十一人の子供たちのうちの十人は、彼の目の前で死んでいったのです。親にとって、何よりつらいのは、自分よりさきに子供たちが亡くなっていくことではありませんか。彼は、それを十回も経験したんです。


悲しみの中で湧き上がる賛美
 孤児として育ち、最愛の妻に先立たれ、十人の子供を死なせた彼の人生は、一言でいうなら、死に呪われた人生のようです。ところが、バッハには人生に対する苦さというものがないんですね。それどころか、自分に人生を与え、兄弟たちを与え、妻を与え、子供たちを恵んだ神への賛美が、生涯途切れることがなかったのです。彼は毎週新しいカンタータを作曲し、音楽を神からの賜物と喜び、その作品の楽譜には「神に栄光あれ」とサインがなされていました。自分に与えられた音楽の才能をフルに活用して、彼は、死があふれかえっていた、この時代に喜びの歌を紡ぎ続けたのです。彼が、身のまわりの状況に心を折られることなく、正気を保ち続け、人生を肯定することができたのは、聖書によって、確たる死生観を確立していたからです。聖書には、死と命についてこう書いてあるんです。

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」



聖書が語る「死」と「いのち」
 ここには、三つのことが語られています。

 第一に、死の原因とは何かです。人はなぜ死ぬんでしょう、死ぬ命を持って生まれてきたからです。では、どうして、命には、死がプログラムされているんでしょう。命の造り主に対して、人が関係を断ち切っているからなんですね。人類最初の人間が、神に反逆したために死が入ったのです。この死が入り込んだ命が先祖代々私たちに受け継がれているというのです。
 私は先日全身麻酔をして、手術を受けました。麻酔から覚めた私はふと気が付くと両足に見慣れないストッキングを履かされているではありませんか。さらに空気圧縮装置で二十四時間もの間、両足のマッサージが続いたのです。いったいなんでそんなことをするんでしょう。絶食絶飲のうえで、長時間同じ姿勢のままで寝ていると、足に血栓という血の固まりができやすくなるんですね。この血の固まりが肺静脈にまで行くと血栓が詰まってしまい、呼吸困難になるんです。小さな血の塊が肺への血管をふさいでしまうことで、死に至ることすらあるというのです。それと同じように命のルーツである神と人間との間に罪という遮蔽物が立ちはだかることによって、神からの命や祝福がせき止められてしまうのです。この神との絶縁が、人間に死をもたらしたのです。


神が備えた死の解決方法

 第二に、神は死を解決するために、イエスキリストを送ってくださったということです。
 バッハは死の原因を知っていましたが、同時に、神がその解決のためにしてださったことをも知っていたのです。彼は、自分を怒りっぽく、頑固者で人間関係においては、不器用で欠点を持つ人間だということを自覚していましたが、決して神から憎まれているとか、嫌われてるとか、呪われてるというふうには考えなかったのです。なぜなら、自分の罪や短所や悪い部分は全てキリストが十字架の上で引き受けてくださったことを知っていたからです。罪に対する刑罰はひとつ残らずキリストが、あの十字架の上で代わりに引き受けてくださったのです。だから、刑罰は、すでに全部、終わっているんです。神と自分との間に残っているのは、愛だけだということをバッハは知っていたのです。
 十人の子を失って嘆いた彼は、一層神を褒め称えるようになったと言われています。なぜなら、神もまた、ご自分の子供をあの十字架の上で、亡くしてくださったからです。大切な人を亡くしたものの気持ちは、大きな喪失を経験した者でないと分かりません。神は私たちの悲しみを理解できるのです。全知全能だから理解できるというだけでなく、神自らが大切な一人子をあの十字架の上で亡くしてくださったからです。


死を乗り越えさせる希望

 第三に、神が用意してくださったものがここには書かれています。キリストは十字架にかかって後、三日目に死を突き破ってよみがえられました。この死を飲み込む命を永遠の命というのです。この永遠の命を神は、私たちに用意してくださっているんです。キリストにあって、死んだ人は必ず永遠の命を携えて、永遠の命にふさわしい天国に行くのです。

 我が家は、同じマンションの二階と三階に住んでいます。手狭なのでそのようにしたんです。三階で食事をとったら私は二階にある書斎に降りていきます。そのとき三階に部屋を持っている子供たちは、いちいち送別会をしたり、涙に泣き崩れたりするというようなことはありません。いつでも会えるところに行くときの別れは深刻にならなくてもよいのです。クリスチャンにとって、天国とは、必ず行ける魂の故郷なのです。このように神の下さる永遠の命は人間に死を乗り越えさせる希望となるのです。
 どうぞあなたも、ぜひこのイエスキリストをご自分の救い主として信じてください。心からお勧めします。









同じ主(神様)にある姉妹のつどい

2018年02月22日 | 聖書

                                   

    ある姉妹のお宅で、三人で昼食のときをもちました。
    「パンを焼いておくので、どうぞ」
    とのことで、Nさんと一緒に招いてくださいました。

    柔らかく、まだぬくもりが残っているパンでした。
    実だくさんのスープも、コーンサラダもマイルドな味でおいしかったです。

    私も一応サラダをお持ちしましたが、
    小心者ですね。皆さんの口にあったかしらと気になってきょろきょろ。
    さとうのサラダは、小肌とアボガドと新玉ねぎ、干しブドウの和え物風。

    前々から、いつか公にしたい!一品でしたが、さて。です。
    食べることは幸せです。おしゃべりも幸せです。

    Nさんの食前の祈りがまたすてきでした。

    ・・・・・

    二人でも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいます。
                              (マタイの福音書18章20節)

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                             アーメン

    これはイエス・キリストの言葉で、たしかに、間違いなく、そこには、イエスがおられたのです。
    なんと言っても、主が共にいて下さったことが一番、幸いでした。